本文

(全体の雰囲気や、二人の関係が伝わるような形にプロットの要素を整理して、短編にしています)


 自分が望んでも手に入らなかったもの。そのすべてを持っている相手を前にしたとき、人はその相手を大切にできるだろうか?


 高校一年生の冬見一樹の場合、その「相手」は一つ年下の女の子だった。

 しかも、同居する従妹だ。


「おかえりなさい、一樹くん」


 従妹の秋乃二葉が小さな声で言う。

 夏の夕方。


 学校帰りの一樹は今、自宅の玄関に立っていた。名古屋市東区にある、ごく普通の平凡な一軒家だ。


 そして、従妹の二葉もほぼ同じタイミングで帰宅したようだった。


 小柄な二葉は、靴を脱ごうと脚を上げていたところだった。明るい色のセーラー服のスカートから、白い脚がちらりと見える。


 二葉は靴を脱ぐと、ジト目で一樹を睨む。


「何を見てたんですか?」


「いや、別に……」


「ふうん。一樹くんの嘘つき」


 二葉の黒い瞳が、一樹を射抜く。二葉はかなりの美少女だ。晴れ渡った夜空のような美しい黒髪のロングヘアに、すらりとした身体。やや幼い印象だけれど、驚くほど整った顔立ち。


 セーラー服を着ると、そういう衣装のアイドルにも見える。もっとも、一樹と二葉は同じ中高一貫校に通っているから、その中等部の制服で見慣れているから、それほどの新鮮さはない。

 それでも思わず目を奪われてしまうほど、二葉は可憐だった。


 こんな可愛い従妹と暮らせるというのなら、喜ぶ男子は多いと思う。


 ただ、一樹には素直に喜べない理由は二つある。

 一つは、二葉に嫌われているからだ。


 二葉は両腕で自分の身体を抱き、ちょっと顔を赤くする。


「わたしのこと、エッチな目で見て、気持ち悪い……」


「見てないよ」


「正直じゃないところも、嫌いです」


 二葉は俺をちらっと見ると、さっさと二階の自室へと上がっていってしまう。

 たしかに、一樹は二葉のことを異性として意識してしまうこともある。


(でも、仕方ないじゃないか……)


 二葉は両親を事故で失い、母方の親戚の冬見家に引き取られた。それは二葉が小学二年生のとき。

 それから同じ家に暮らして兄妹のように成長したとはいえ、一樹と二葉は名字も違う。そして、美しく成長した二葉のちょっとした仕草に、一樹は心を乱されてしまう。


 一樹だって、思春期の少年なのだ。

 しかも一樹の父も母も多忙で、ほとんど家に帰ってこない。だから、事実上、二葉と二人暮らしだ。


 意識するな、というのは難しい。

 一樹はため息をついて、それから確認しないといけないことに気づいた。


 一樹は階段を上がり、二階の二葉の部屋の前へと行く。ちなみに隣に一樹の部屋がある。

 こんこん、と二葉の部屋の扉をノックすると、「なんですか?」と冷たい声が返ってくる。


「今日はピアノのレッスンは?」


「先生の都合でお休みになりました。だから、家で練習します」


 扉越しに、小さな声が戻ってくる。一樹が二葉との同居を素直に喜べないもう一つの理由。

 それがこれだ。


 二葉は「天才美少女ピアニスト」として有名な存在だった。数々のコンクールで賞をばんばん獲得して、その名声は日本はおろか海外にも響き渡る。ついでに容姿も優れているから、マスコミにもたびたび取り上げられ、一般人からの人気も高い。


 まるで漫画の登場人物のような、絵に描いた天才。それが二葉だった。そして、同じく一樹も、かつて「ピアノの神童」と呼ばれていた。


 ただ、二葉は現在進行系の天才であるのに対し、一樹が神童なのは完全に過去の話だった。

 今は「ただの人」だ。


 二葉は平日も学校が終わるとすぐに、ピアノの教室へと向かい六時間近いレッスンを受けて、夜遅くに帰ってくる。天才は恐ろしいほどの努力をしている。一樹はよく知っていた。


 反対に、一樹はピアノを弾くのをとっくの昔に辞めている。簡単にいえば、自分の才能の無さに絶望し、挫折したのだ。今は帰宅部なので、毎日のように家で暇を持て余している。


 だから、家事は一樹がすべてやっていた。二葉が深夜に教室から家へ帰るのも、危ないだろうから、一樹が出迎えを行っている。


 それをつらいと思ったことはない。

 ただ、二葉への劣等感が一樹を苦しめていた。本来だったら、ピアノの前に座っているのは、二葉ではなく、一樹だった。なのに……。


 一樹は余計な思考を振り払った。

 

「なら、今日は家で晩飯を食べる?」


 一応、一樹は聞いてみる。いつも二葉は、ピアノ教室の休憩時間で食事をとるか、深夜の家で一樹が作り置きした夕飯を暖めて食べていた。

 

 今日はそうする必要なく、一樹と二人で夕食をとれるはずだ。ただ、二葉の性格を考えると、拒否されるかとも思う。

 昔は仲が良かったのに、今の一樹と二葉は互いを避けていた。


 しばらく沈黙が続く。

 

「そう……ですね。たまには……ご一緒しようかと思います」


 やがて、二葉からそんな返事があった。意外に思い、そして少し嬉しくなった。

 二葉が一樹を嫌っているとしても、一樹は二葉のことを嫌いではなかった。複雑な感情はあっても、二葉とは普通に仲良くしたいと思っている。


(何もない俺が、俺が欲しかったものを持っている二葉に認められたいだけかもしれないけど……)


 ピアノの演奏でこそ、二葉は天才的な才能を示すが、それ以外は不器用なことが多い。

 特に生活能力は皆無で、料理や洗濯はまったくできない。すべての時間をピアノに捧げてきたのだから、当然だけれど。


 だからこそ、一樹は二葉の「お世話」をすることで、自分の存在意義を確認できた。


「二葉はなにか食べたいものある?」


「えっと、その……ハンバーグ、とか?」


 それを聞いて、一樹はくすくすと笑う。突然、二葉が扉を開けて、ひょこっと顔をのぞかせる。

 二葉がジト目で一樹を睨んでいた。


 すでに部屋着姿で、ショートパンツにキャミソールというラフな格好だった。夏で暑いからとはいえ、肌色が多くて、一樹はどきりとする。


「なんでくすっと笑ったんですか?」


「いや、別に他意はなくて……昔からハンバーグ、二葉は好きだったなって思って」


「子どもっぽいってことですか?」


「そうじゃなくて、変わっていなくて嬉しかったんだよ」


 一樹の言葉に、二葉は目を瞬かせ、そして目を伏せる。


「そうですね。でも、他のことは……一樹くんもわたしも変わっちゃいました」


「そうかな」


「そうですよ」


 二葉は寂しそうにそうつぶやく。変わったことはいろいろあるけれど、一樹がピアノに挫折したのが最大の変化かもしれない。


 一樹がピアノと縁を切ったのは、中学一年生のとき。いまから三年前だ。そのころまでは、今の二葉と似たような生活を一樹は送っていた。練習漬けだったのだ。


 その生活を辞めたのは、二葉がきっかけだった。だから、二葉はもしかしたら、自責の念を抱いているのかもしれない。


(そんなこと気にしなくていいのに……)


 一樹は微笑む。

 

「でも、ともかくハンバーグは作るから」


「な、なにかお手伝いしましょうか?」


 二葉が早口で言う。一樹は笑顔で首を横に振った。


「いいよ。二葉は休んでて」


「わ、わたしがいると邪魔ってことですか?」


 むうっと二葉が頬を膨らませる。

 一樹は慌てた。


「邪魔ってことはないけどさ」


「どうせ、わたしは料理ができないお子様ですよ!」


「それはそうだけど……いや、お子様だとは思っていないけどね? いつも練習で疲れているだろうし、それに、二葉が怪我をしたらいけないから」


 ピアニストとしての二葉に料理をさせて、手指に怪我でもされたら大問題だ。一樹の母は自分もピアニストで、二葉の将来を期待している。もし少しでも二葉を怪我させたら、母に何を言われるかわからない。


 一樹自身ももともとピアノを弾いていた身だから、他人事ではない。それに、二葉は大事な従妹だ。


 二葉がちらっと上目遣いに一樹を見る。


「一樹くんだって、怪我をしたらダメじゃないですか」


「俺はいいんだよ」


「でも、一樹くんだって、指に怪我をしたらピアノが――」


 二葉はそこで黙ってしまう。一樹も指を怪我したらピアノを弾けなくなってしまう。

 そう言いたかったのだとは思う。


 ただ、それは一番、デリケートな話題だった。

 なるべく、何でもない風を装って、一樹は肩をすくめて笑ってみせる。


「俺はいいんだよ。下手なんだから」


「一樹くんは下手なんかじゃない!」


 二葉は叫んでから、はっとした表情になる。

 そして、ぐすっと涙ぐんでしまう。


 一樹は言葉の選び方を失敗したと思った。一樹は身をかがめ、二葉に視線を合わせる。


「……ごめんなさい、一樹くん」


「二葉は何も悪くないよ」


「でも……」


「ともかく、夕飯ができたら、呼びに行くから」


「どうして、一樹くんは……」


 二葉はそこで言葉を切ってしまう。何を問いかけようとしていたのだろう?

 気になったが、二葉が言うつもりがないなら、無理に言わせるつもりもない。


 一樹はちょっと迷ってから言葉を紡ぐ。


「ともかく、あまり気にしないでよ。俺は久々に二葉と一緒にご飯を食べれて、嬉しいし」


 気持ち悪いと思われるかな、と恐れながらも、一樹は言ってみた。途端に二葉は顔を真っ赤にして「一樹くんのバカ!」なんて言って部屋の扉を勢いよく閉めてしまう。


 一樹はほっと息をつく。


(やっぱり、失敗したかな……)


 もともと二葉に避けられているのに、今みたいな発言は良くなかったかもしれない。


 でも、たとえ二葉が一樹のことを嫌いでも、一樹は二葉を支えたい。それが、何もない一樹が、自分の存在意義を確かめる唯一の方法だから。



 ☆



 結局、夕食は一樹が食材を買い出しに行き、ハンバーグを二葉のために作り、一緒に食べた。


 二葉は言葉が少なかったけれど、それでも「美味しい」と言ってくれた。

 それが一樹には嬉しくて……。


 昔は、つまり一樹と二葉が小学生高学年になるぐらいまでは、かなり仲が良かったと思う。二葉は「一樹お兄ちゃん」なんて、目を輝かせて一樹のことを呼んでくれた。


 でも、今はそんな仲の良い関係は失われた。


 一樹は教室の窓の外を眺め、そんなことを考えた。午前最後の授業中で、一樹の授業は数学だった。

 校庭では他学年のクラスが体育をしている。


 授業はあと少しで終わるから、すぐに昼休み。

 平凡な一日だ。二葉も隣の校舎の中等部で授業を受けているはずだ。

 その日が平凡でなくなったのは、隣の席の女子が原因だった。

 

「ね、ね、冬見?」


「夏城さん? どうしたの?」


 隣の席の女子――夏城楓に話しかけられて、一樹は小声で答えた。

 楓はくすりと笑い、一樹の顔を見つめた。


 自然と、一樹も楓を見つめ返す。


 楓はクラスでは良くも悪くも目立つ少女だ。もともと顔立ちもスタイルも良い上に、容姿に気を使っていてお洒落で、かなりの美人だ。

 ただ、髪を軽く染めていて、ちょっとギャルっぽい見た目だ。


 一樹たちの通う学校は名門進学校だから、真面目な生徒が大多数を占める。そういうなかで、楓は浮いていた。

 

 明るくフランクな性格で男子からはかなり人気が高い。反面、女子からは疎まれているようにも思える。やっかまれているのだろう。


 意外にも、成績も優秀でクラスで二番だし。ちなみに、一番は一樹なのだけれど。


 そんな楓は、こちらに手を伸ばすと、一樹の頬をちょんと人差し指でつついた。


「へ?」


「今度のテストでは負けないんだからね?」


「ああ、学期末テストのこと?」


「そうそう。去年もずっと一樹に負けていたし」


 楓とは、中等部三年生のとき、同じクラスになって以来の付き合いだ。その頃から、なぜか楓は一樹のことをライバル視していた。


 一樹は肩をすくめた。


「俺になんて勝っても仕方ないと思うけれどね」


「そんなことないでしょ? うちの学校でクラス一番なんて、めちゃくちゃ頭いいじゃん」


「そういう夏城さんだって、二番じゃないか」


「一番と二番だと違うって。学年の順位だと、あんたは一桁なのに、あたしは二桁だし。羨ましい」


 一樹はたしかに学年でも七位や八位ぐらいの成績を取っている。

 そういう意味では一樹も成績優秀だ。誇ってもいいのかもしれない。


 ただ、あくまで「それなりに」優れているだけだ。天才とはかけ離れている。


 一樹がほしいのは、そんなものではなかった。

 たとえば二葉のような特別な才能がほしい。いや、「たとえば」ではなく、一樹が欲していたすべては、二葉が持っている。


 でも、目の前の楓は、一樹のことを妬ましいという。

 そのことが、一樹には少しくすぐったかった。つまり、悪くない気分だったのだ。


 教師に私語を見とがめられるかもしれないと思いながら、楓の言葉に応じてしまうのは、それが理由だった。

 こんな些細なことを喜んでしまう自分に、一樹は苦笑する。


(可愛い女子に認められて嬉しくなってしまうのは、まあ健全な男子としては当然かな……)


 そんなふうに、一樹は考える。

 

「ねえ、冬見」


 楓が少し甘いトーンの声で、一樹の名字を呼ぶ。ほぼ同時に授業が終わった。

 教師が去り、みんな「さあ、これから昼休みだ!」と言わんばかりで、教室は一気に騒がしくなる。


「……冬見はさ、もっと自信を持ってもいいのに」


「そうかな」


「そうだよ。冬見は頭も良くて、カッコよくて優しいんだから」


 早口で楓が言う。

 いつもライバル視されている楓からの意外な言葉に、一樹はちょっと驚く。


「そんなふうに素直に褒められると裏があるんじゃないかって疑っちゃうよ」


「う、裏なんてない! あたしを何だと思っているの!?」


「ごめん。でも、俺は……」


「従妹の秋乃さんと比べたら、大したことないって言いたいの?」


「そうだね」


 楓も、もちろん他のみんなも、冬見一樹と秋乃二葉が従兄妹だと知っていて、ついでに二葉が有名ピアニストだとも知っている。


 だからこそ、一樹は学校でさえ、二葉と比べられがちだ。二葉と比べると、一樹の優秀さなんて霞んでしまう。


 でも、楓はそうは思っていないみたいだった。


「あたしは、冬見の方が好きだけどな」


「え?」


「す、好きっていうのは、そういう意味じゃないから!」


「わかっているよ」


「ふうん。……あのさ、冬見は家事も全部やって、秋乃さんの面倒を見てあげているんだよね?」


「そんなに大したことはしてないよ」


「嘘。本当はすごく大変だと思うの。秋乃さんが活躍するために、冬見が犠牲になるなんて、そんなのおかしいよ」


 楓は憤った様子で言う。一樹は肩をすくめた。楓が一樹のためを思って怒ってくれているのはわかる。


 実際、普通だったら理不尽なことかもしれない。一樹の母は、才能のある姪を優先して、実の息子に世話係を押し付けた。一樹はピアノの落ちこぼれで、二葉こそが母の期待を背負った星だった。


 けれど、一樹はそのこと自体に不満はなかった。


「ありがとう。夏城さんの言う通りかもね。でも、好きでやっていることだから」


 楓は複雑そうな表情を浮かべたが、それ以上、何も言わなかった。

 他人の家庭事情にこれ以上、口出しする訳にはいかないと思ったのかもしれない。


「余計なこと言ったかも。ごめんなさい」


「いいよ」


 話はそれで終わりかと思った。

 ところが、まだ本題があるらしい。


 楓はもじもじとしている、少し顔を赤くしている。

 どちらかといえば、楓は思ったことははっきり言うタイプだから珍しい。いや、それほど深い交流があるわけではないのだけれど。


「なにか言いたいことがあるなら、遠慮なく言っていいよ」


 一樹はなるべく優しく言う。言いづらいことを言う大変さを、一樹もよく知っていた。本当に思っていることを、一樹は二葉に伝えられていない。


 楓はちらっと一樹を見ると、深呼吸した。

 そして、意を決したように言う。


「あのさ、お昼、一緒に食べない?」


「え? いいけど、急にどうしたの?」


「なんとなく、そうしたくなったの」


 楓は同性の友人が少ないし、昼は多人数のグループの中に入るか、そうでなければ一人で食べていることが多いみたいだった。


 一緒に昼を食べる特定の相手がいるわけでもないらしい。一樹だって似たようなものだ。

 

「そっか。誘ってくれてありがと」


 一樹が言うと、楓は顔をますます赤くしてうつむいてしまう。 


「……こっちこそ、ありがと」


「どこ行く? 学食か、外に食べに行ってもいいし」


 進学校であるこの学校は、自由の校風で知られる。たとえば、昼休みのあいだは学校の外に出て、飲食店にランチに行くことも可能だ。

 格安の大盛りうどん店などなど、中高生に優しい店もある。


 けれど、楓は首を横に振った。


「あ、あのね、お弁当作ってきたの!」


「へ!?」


「か、勘違いしないでよね。た、たまたま作りすぎて来ちゃったの!」


「夏城さんっていつもお弁当だったっけ……? 学食派だったような……?」


「こ、細かいことは気にしなくていいの! 男の子って、女子の手作り弁当が食べれるって聞いたら喜ぶんでしょう?」


「まあ、そりゃ、夏城さんの手作り弁当が食べれるって聞いたら、九割九分の男子は喜ぶと思うけどね」


「他の男子じゃなくて、冬見はどうなの?」


「もちろん俺も嬉しいよ」


 一樹は微笑んだ。楓はぱっと顔を輝かせる。

 

「良かった。頑張って作ったもの!」


「えっと、たまたま作りすぎたんじゃなかったの?」


「……っ! ほ、本当は、冬見のために作ってきてあげたの」


「そうなんだ。それは、その……ありがとう」


 どういう風の吹き回しだろう。中等部以来のライバル(?)として、それなりに仲良くしていたけれど、突然、手作り弁当を作ってもらうほど親しくしていたわけでもない。


「だって、冬見っていつも家では自分と秋乃さんのご飯を作って、学校では購買のパンばかりでしょ? だから、たまには誰かがご飯を作ってあげないと……」


 楓は心配そうな表情だった。

 そう言われれば、長いこと、一樹は誰かに料理を作ってもらっていない。


 両親はほぼ家にいないとはいえ、一樹の父は名古屋有数の資産家の三男だ。お金には困っていないからハウスキーパーを雇っていて、たまに来てくれる。


 ただ、彼女たちも、掃除洗濯をしてくれても、料理まではしてくれない。


「あたしなんかのお弁当だけど……」


「夏城さんが俺のために作ってくれたなら、大歓迎さ。屋上とかに行く?」


 一樹がそう言うと、楓は「うん」とうなずいて、優しく微笑んだ。

 普段とは違う楓の柔らかい表情に、一樹はどきりとする。

 

 そのまま、二人は屋上に行くはずだった。ところが、そうはならなかった。

 男子生徒の一人が一樹の近くに寄ってくる。メガネをかけた真面目そうなやつ……委員長の小野木だ。


「お客さんだよ。冬見くん」


「へ?」


「秋乃二葉さん。従妹だろう?」


 小野木はそう言うと、ぽんと一樹の肩を叩き、去っていく。

 見ると、教室の廊下側の入り口に、一人の小柄な少女が、落ち着かない様子で立っていた。


 二葉だ。

 目が合うと、二葉がほっとした表情でとてとてと駆け寄ってくる。


「か、一樹くん……」


「どうしたの、二葉?」


「あの、その……」


 二葉が学校で話しかけてくることは、めったにない。そんな二葉がわざわざ教室まで来たのだから、重要な用事があるに決まっている、と一樹は思った。


 二葉は、意を決したように一樹を見上げた。


「お昼ごはん、一緒に食べませんか?」


「え?」


「その、えっと、たまにはいいかなって思ったんです。そ、その、一樹くん、昨日、わたしと一緒にご飯が食べれて嬉しいって言ってましたし……。が、学食でわたしがおごりますから」


 年下の従妹に奢ってもらうつもりなんてないのだけれど。それはともかく、二葉がそんなことを言いに来てくれたのは、たしかに嬉しかった。


 二葉の方からこんなふうに一樹を誘ってくれるなんて、かなり久しぶりだ。

 本当だったら、両手を挙げて喜んで受け入れるのだけれど。


「ごめん、二葉」


「えっ……」


 二葉が拒絶されたと思ったのか、ショックを受けたように固まった。

 慌てて一樹は言葉を追加する。


「そ、その、今日は他の人とお昼ご飯を食べる約束をしたから」


「あっ、そうですよね……」


 二葉が納得したように、そして残念そうにつぶやいた。


「また明日でも、一緒に食べに行こう」


「はい……」


 二葉がちょっと嬉しそうにほんのり顔を赤くして言う。

 ここで会話が終わっていれば、平和だっただろう。


 ところが。


「冬見は、今日はあたしの手作り弁当を食べるの」


 隣から、楓が突然言う。楓はちょっと怒ったような表情をしていた。一樹と二葉の会話の横で、ずっと置いてけぼりだったからかもしれない。


 二葉も一樹の隣にいる楓の存在にはじめて気づいたらしい。


 二葉は驚愕の表情を浮かべていた。


「か、一樹くんが……女の子の手作り弁当を食べる……!?」


 そして、二葉は楓をちらっと見た。楓と二葉は面識がない。楓は二葉の存在を一方的に知っているが、一樹は二葉に楓のことを話したことはなかった。そもそも日常会話自体が少ないからだ。


「しかも、こんな可愛い人の……」


 二葉がつぶやく。その言葉を聞いて、楓は気を良くしたらしい。


「冬見ってけっこうモテるの。知らなかった?」


「っ……! そんなこと知ってます! だって、わたしも一樹くんを――」


 そこで二葉は真っ赤になって黙ってしまう。

 楓が勝ち誇った表情を浮かべた。


「冬見が、秋乃さんよりもあたしのことを優先してくれて嬉しいな。冬見も、学食より、やっぱり手作り弁当だよね」


「か、一樹くんの名前を気安く呼ばないでください!」


「名前って……名字を呼んでいるだけでしょう? なに? ヤキモチ焼いているの?」


「ち、違います! でも、そうですね――あなたは……」


「夏城楓」


「夏城さんは、一樹くんのこと、下の名前では呼べないんですね?」


「これから呼ぶようになるかも」


 二葉の反撃を、楓はあっさり撃退した。

 そして、突然、楓が一樹と手をつなぐ。ひんやりとした小さな手に、一樹はびくっとする。


 呆然としている二葉を横目に、楓は強引に一樹の腕を引っ張った。一樹がびっくりして楓を見ると、楓は上目遣いに甘えるように一樹を見つめた。

 

「約束でしょ? 屋上で一緒に食べるって」


「そうだったね。でも……」


「ふ、ゆ、み?」


 楓に迫られ、一樹はこくこくとうなずいた。先約があったのは楓なので、約束を守るのは当然だ。今日の昼休みは、楓と一緒に昼食を摂ることになる。


 ただ――。

 二葉の様子を確認すると、二葉は泣きそうな表情だった。そして、「一樹くんのバカっ!」と叫ぶと、走り去って教室から出ていってしまった。

 

 スカートの裾がふわりと翻り、きれいな白い脚に一樹は目を奪われてしまう。そして、周囲の好奇の目が突き刺さる。第三者から見れば、修羅場にしか見えないだろう。


 けれど、楓はそんなことは気にせず、目の前の一樹のことしか見えていないようだった。


「どうしたの? 早く行こう?」


 楓が甘えるように一樹の手をぎゅっと握る。一樹はうなずいた。

 ただ、心の中は、二葉のことでいっぱいだった。





 楓の手作り弁当はものすごく美味しかった。おかずの種類もたくさんで、どれもとても美味しい。しかも、食べ盛りの男子高校生に配慮した大盛りサイズだ。


 一樹ががつがつと食べてしまうのを、楓は幸せそうに見つめていた。


 屋上にはカップルがたくさんいて、一樹と楓も彼ら彼女らと同じように、ベンチに座って昼ごはんを取った。


 楓はずっと上機嫌で、「あたしたちも、彼氏彼女に見えるかな……」なんてつぶやいて、それから顔を赤くして、ちらちらと一樹の様子をうかがった。


「ね、今日の放課後……話があるの。生物準備室に来てくれない? あの教室、空いているはずだから……」


「今、ここではダメなの?」


「ま、周りに人がいると恥ずかしいから」


「そ、そっか……」


 もしかして告白されるのだろうか、と一樹は思う。


(勘違いで自意識過剰だったら恥ずかしいけれど……)

 

 でも、楓は明らかに一樹に好意的だった。


 楓はとても可愛い。ギャルっぽい見た目だけど、そこがいいという男子も多いはずだ。頭も良いし、意外にも料理も上手だ。クラスでは浮いているけれど、本当は優しい性格だとも思う。


 もし、そんな子が自分のことを好きでいてくれるのなら。

 それはとても嬉しいことだと思う。


 でも、そう思ったとき、一樹の脳裏には二葉の姿が浮かぶ。一人寂しそうにしている、幼い頃の二葉だ。


 どうして二葉のことを、今、考えてしまったのだろう。


 たぶん、楓は二葉とは無関係に、一樹のことを肯定してくれる。けれど、一樹は二葉なしの生活なんて、今までは考えられなかった。


 でも、これからもそうとは限らない。


(俺も……変わらないといけないの)


 今は、二葉は家族として、世話係として、一樹のことを必要としているかもしれない。

 でも、それがいつまで続くかはわからない。いや、いずれ二葉は一樹を必要としなくなる日が来る。


 一樹は自分の心の隙間を埋めるために、二葉に依存していた。その才能の輝かしい光に、すがっていたのだ。


 でも、そんなことを続けるのは、二葉のためにも、一樹自身のためにもならないと理屈ではわかっている。

 そうであれば、一樹は楓の手を取るべきなのかもしれない。


 お弁当を食べ終わると、楓は微笑んだ。


「じゃあ、冬見。放課後、絶対に来てね」


 楓は弾む声で言う。まるで明るい未来を思い描くかのように。



 ☆



 放課後。一樹は約束の場所へと行った。

 楓に来るように言われた、生物準備室だ。特別教室の準備室で、ベタな人体模型とかが置いてある薄暗い部屋だ。

 たしかに人は来ないけれど、雰囲気は微妙な場所だった。


(ただ、「生物を準備する」か……名前はちょっとエロいかもしれない)


 そんなくだらないことを、一樹は考える。一樹は一樹なりに緊張していた。

 生まれて初めて女子に告白されるかもしれないのだから。


 扉を開ける。まだそこには誰もいなかった。

 16時集合の約束で、今はまだ15時40分。少し早く来すぎたかもしれない。


 ただ、楓の気持ちを考えると、待たせるわけにもいかない気もする。


(まあ、全部、勘違いかもしれないんだけどね……)


 実はドッキリで、クラスメイトが棚にひそんでいるという企画かもしれない。

 そうだったら傷つくな、と一樹は思う。期待して、期待を裏切られるのが一番つらい。


(期待、か。そうか、俺は期待しているんだろうか……?)


 楓と付き合いたいという男子はやまほどいる。そうでなくとも、可愛い女子に好きだと言われれば、嬉しくないはずもない。

 一樹も例外ではなかった。


 ただ、一樹の欲しいものは、本当にそういうものなのだろうか。

 わからなかった。まだ告白(仮にされれば)の返事も決めていない。


 すべては楓の話を聞いてからだと思っていた。

 部屋の扉が開く。一樹はびくりと震え、振り返った。


 ところが、そこにいたのは楓ではなかった。


「一樹くん……」


「二葉?」


 従妹の二葉が、扉の外には立っていた。

 制服のセーラー服が、なぜか窮屈そうに見える。

 

 二葉はうつむいていた。


「どうして二葉がここに?」


「だって、一樹くんはあの人……夏城さんに呼ばれているんですよね?」


「そうだけど、なんで知ってるの?」


「全部、聞いていましたから」


「へ?」


「わたしも屋上に行って、陰から一樹くんと夏城さんの会話を聞いていたんです。ずっと、全部」


 驚きのあまり、一樹は腰を抜かしそうになった。

 二葉は困ったような笑みを浮かべる。


「こんなストーカーみたいなことをして、わたし、気持ち悪いですよね」


「気持ち悪いとは思わないけど……」


「嘘。一樹くんは……わたしのこと、嫌いなんですよね?」


「そんなこと、一度も言ってない」


「言ってなくても、わかります。わたしは、ただの従妹なのに妹みたいに振る舞って、同じ家に居候していて……家事だって、全部、一樹くんにやらせています。邪魔で迷惑ですよね」


「父さんと母さんが二葉を引き取ったときから、二葉は家族だよ。邪魔で迷惑だなんて、一度も思ったことはない」


「でも……わたしのせいで……」


「たしかに母さんが二葉の方を大事にしているのは、悔しいさ。それに、ピアノの才能だって羨ましいよ」


 二葉がびくっと震える。


「わたしが……一樹くんから、ピアノを奪ったんです。だから、わたしは一樹くんに嫌われて当然なんです」


 そう言うと、二葉は制服のポケットから、カッターナイフを右手で取り出した。そして、その刃を出す。

 一瞬、二葉にカッターで襲われるのかと思い、どきりとする。


 だが、二葉がそんなことをするはずない。

 

 代わりに、二葉はカッターの刃を自分の左手の指先に当てる。

 一樹は慌てた。もし二葉が怪我をするようなことがあったら、取り返しがつかない。ピアニストにとって、指はもっとも大事な財団は。


 一樹はとっさに、カッターを持った二葉の右腕をつかんだ。


「離してください」


 二葉が泣きそうな表情で言うが、一樹は従うつもりはなかった。


「何をするつもり?」


「わたし、もう疲れちゃったんです。指を切れば、もうわたしは天才ピアニストでいられなくなります。ううん、必要がなくなるんです」


「どうしてそんなことを……」


 二葉の才能は一樹が欲してやまなかったものだ。

 だからこそ、二葉がそれを捨てようとしているなんて、理解できなかった。


 一樹は二葉のことを嫌いではない。それは嘘ではない。だが、もし嫌いになる理由があるとすれば、今の二葉の行動だった。


 一樹がもっとも欲しい物を、二葉は自分で捨てようとしている。

 そんな一樹の内心には気づかず、二葉は訴える。


「だって、わたしがピアノを頑張ってきたのは、一樹くんに……お兄ちゃんに認められたかったらなんです。なのに、わたしがピアノを頑張れば頑張るほど、お兄ちゃんに嫌われちゃって……」


「嫌ってなんていないよ」


「そんなわけないです! 一樹お兄ちゃんは、昔はあんなにわたしに優しくしてくれたのに、あのときから……お兄ちゃんがピアノを辞めたときから、わたしに冷たくなりました」


 そんなつもりはなかった。でも、感情が整理できなかったのも事実だ。

 自分のやっていたことはすべて無駄で、自分よりも遥かに才能豊かな人間がいると示されて。

 小学生のころの一樹は、たしかに二葉を恨んだかもしれない。


 でも、今は違う。

 二葉の手から、カッターナイフが離れ、床に小さな音を立てて落ちた。


 ほっとした一樹の制服の袖を、二葉がぎゅっと握る。


「わたしは……いつもお兄ちゃんに迷惑をかけてばかりで、素直に『ありがとう』って言葉も言えなくて、それなのにお兄ちゃんに依存して甘えているんです……。だから、わたしは嫌われて当然なんです」


「もし二葉が俺に依存しているなら、俺だって二葉に依存しているよ」


「え?」


「俺には何もないから、だから、俺の欲しい物を持っている二葉が羨ましい。それは事実だ。だからこそ、俺は二葉を支える、いや支えていると思い込むことで、自分の存在意義を確かめてきた」


 かつて神童だった一樹は、何も持たない「無色透明の存在」になった。そうなったとき、唯一、一樹の心を埋めたのが、二葉の世話を焼くことだった。


 二葉が一樹の夢を叶え、その二葉を一樹が支えている。その構図は、一樹にとってはとても心地良いものだった。

 

 たとえ、二葉が一樹を避けていたとしても。


 二葉に嫌われていたと思っていたが、それは勘違いで、二葉は罪悪感で一樹を避けていたらしい。

 二葉は二葉で、一樹に嫌われていると思いこんでいた。


 要するに二人は似た者同士だったわけだ。

 二葉が小さく首をかしげる。


「なら、お兄ちゃんは……わたしのこと……」


「本当に嫌いなんかじゃないよ。むしろ好きなぐらいで」


「す、好き!?」


 二葉がみるみる顔を赤くする。一樹は慌てて手を横に振った。


「好きっているのは、人間として好ましいということで、変な意味はないよ」


「そ、それでも嬉しいです。一樹お兄ちゃんが、わたしのことを好きって言ってくれるなんて、信じられないです……」


「二葉は誰よりもがんばり屋だし、努力している。俺は二葉のことを尊敬しているんだよ」


 二葉が天才であるためにどれほど努力しているか、一樹はよく知っていた。かつて同じ道を歩んでいたのだから。

 二葉はちょっと照れたように、うつむく。


「わたしも……いつもお兄ちゃんには感謝しているんです。わたしがわがままを言ってもお兄ちゃんはいつも優しくて、わたしが泣いていたら慰めてくれて……。だから、わたしもお兄ちゃんのこと……大好きです」


「そ、そっか」


 一樹と二葉は互いの顔を見ることができず、うつむいてしまう。

 最初に顔を上げたのは、二葉の方だった。


「これから、お兄ちゃんは、夏城さんに告白されるんですよね?」


「たぶんね」


「お兄ちゃんは……受け入れるんですか?」


「それは……」


「お兄ちゃんが誰か別の人のものになっちゃうなんて、嫌です。だから、わたしを……見捨てないでください」


 そう言うと、二葉は一樹にぎゅっと抱きついた。

 ふわりとした甘い香りに、一樹はくらりとする。反射的に、一樹は二葉をぎゅっと抱きしめ返した。小柄で可憐な少女――一樹の羨望と憧れの対象が、一樹の腕の中にいる。


 どうすればいいのだろう?

 一樹は二葉の気持ちを受け止めきれなかった。


 二葉は一樹に依存している。一樹もまた、二葉なしには自分の存在意義を見出だせない。

 それが良いことなのか、わからなかった。

 

 二葉の気持ちを知ってしまった以上、ますます一樹は二葉を甘やかしたくなるだろう。

 そして、今も、一樹は二葉のきれいな髪をそっと撫でてしまった。


 二葉は幸せそうに、一樹の手を受け入れていた。


 もうすぐ楓がやってくる。そのとき、こんなふうに従妹と抱き合っている姿を見られたら、どう思われるだろう?


 せっかく可愛い彼女ができるチャンスだったのに、幻滅されて振られてしまうかもしれない。

 

(でも、それでもいいか……)


 二葉がいれば、一樹は満足だった。


 二葉は、一樹の欲しい物をすべて持っている。その二葉が、一樹を必要とし、依存し、そして一樹のものとなるのであれば、こんなに幸せなことはないだろう。


「わたしも、お兄ちゃんだけがいれば、それで満足なんです……」


 そう言って、甘えるように二葉は一樹に頬ずりした。

 きっと、このまま一樹は、二葉の魅力に抗えない。二葉の甘い誘惑に引きずり込まれてしまう。


 たとえ破滅してもいい。

 一樹はそう思ってしまうぐらい、二葉のことを必要としていた。

 そして、きっと二葉も。

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②従妹が天才ピアニスト(可愛い)なので、俺の唯一の存在意義は「彼女を甘やかすこと」です 軽井広💞クールな女神様 漫画①3/12 @karuihiroshi

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