Ⅷ 天使の嘘

 翌日、帳面の新しいページに『④』と書いて、向かい合い黙ったままのフランとバルドを交互に見やる。奇妙な沈黙のオーナー室はとにかく居づらいが、さりとてここで席を立っては秘書の名折れだ。


 ソワソワしながら隣のナユに視線を送るが、そんなルゥには気づいてくれるはずもない。


「俺ぁ、今朝ライザのヤロウから聞かされるまでナンも知らんかった」


 ようやく口を開いたのはバルドだが、この男は新聞は読まないだろう。それに昨日は知らせなきゃという気までは回らなかったし、ルゥはバルドの家を知らない。


「こんなことになったのは秘書の責任なんじゃねぇか」

「ルゥは関係ないよ」


「こいつを夜に、しかも一人であの事件現場へ行かせた。秘書仕事サボってんじゃねえのか」


「それは僕が勝手に——」


「もしこいつが死んでたら、お前どうするつもりだった? 何のための秘書なんだよ?」


「だからルゥを責めるなよ!」


 フランが叫んで立ちあがるが、痛そうに顔を歪め、息を詰めた。


「……あんたの言う通りだよ」


 止められるとしたら、気付けるとしたらルゥしかいなかった。そしてフランに何かあれば、自分も含めて困る人がたくさん出る。


「だからおれは、フランさんをこんなにした奴を絶対に捕まえる。命を懸けたっていい」


 するとバルドの目が暗くなり、鉄の壁が迫ってくるような恐怖を感じた。


「命だと? ケンカもロクにしたことねぇガキのくせに。覚悟はあんのか?」

「ある!」


「じゃあ今、これで俺を撃ってみせろ。実弾入りだ、遠慮はいらねぇぜ」


 ゴトッとテーブルの上に置いたのは、象牙で装飾された古い拳銃だった。いかにも鹵獲ろかくしたという感じだ。


 一体何がしたい、と聞こうとするが、言葉が出ない。バルドが発する暗く猛々しい圧が、拳銃を取ろうと手を動かした瞬間にもこちらへ向かい、牙をむきそうなのだ。相手は座っているだけというのに。


 これが人を殺め、幾度となく死地から生還した戦士というものか。


「お前の覚悟なんざそんなもんだ。命を懸けるとか軽々しく言うんじゃねぇ」

「くっそ!」


「ルゥ。挑発に乗るんじゃないよ。悪いのは君じゃなくて僕なんだし」


「痛みや恐怖に慣れねぇヤツが命張るより、そういうのは俺に任せた方がいいぜ。だから二人とも、次はちゃんと言えよ」


 バルドの目からはいつの間にか暗さが消え、いつものだらしない男に戻っていた。


 分かりましたと返事をするものしゃくだ。フランも同感のようで、あえて話題を変えてナユへ向いた。


「ナユさんにお願いがあるんだ」

「わたしにですか?」


「うん。鉄肺病の療養所で演奏をしてもらえないかな。みんな喜ぶと思うんだ。もちろん仕事として給金は支払わせてもらうよ」


「本当ですか。やらせてください。一生懸命弾きます」


「よかった、ありがとう。ルゥ、後で二人を療養所に案内してくれる」

「はい」


 忙しくとも時間を作り、二、三日に一度は顔を見せるのがフランの日課だが、騒ぎの後だし今日は行かないつもりなのだろう。


 フランの昼食にチーズのガレットを出した後、療養所へ向かう。道中には坂や段差があるが、杖を持ちながらのナユの足取りは、想像以上に滑らかなものだった。


「失礼します、こんにちは」


 事情を説明すると、喜んで皆に伝えてくれた。準備ができるまで少し待って欲しいという。


 ナユは調弦を始め、バルドはうっすら日なたの窓辺で大あくびしている。看護婦たちを眺めていると、見知った女性に気付いた。向こうも「ルゥ君」と手を振り近寄ってくる。


「マーシャさん。どうしてここに?」


 火葬技師のマーシャだ。


「わたしね、発病しているの。もうそんなに長くはないと思うのだけど、一人でいると少し不安でね。だから休みの日はお手伝いさせてもらってるのよ。最期はここで看取ってもらうつもり」


「えっ、そうだったんですか……。全然知りませんでした」


「ナユちゃんの演奏、楽しみだわ。こんにちは、わたしのこと覚えてるかしら?」

「はい。お風呂に入れてくれたマーシャさんですね。消毒液の匂いがします」


「うふふふっ、ありがとう。頑張ってね」


 コの字に三つの部屋が繋がったちょうど真ん中に椅子を置き、準備を整えたナユが楽器を構える。小さな手から奏でられる音は、今日はコロンコロンと木琴のようだ。軽やかな曲調だからだろうか。


 そして旋律は、静かな波のように心へ寄せて返す。己では気付かないうちにしまいこんでいた感情や温かい思い出を揺り起こされ、涙するのだ。それは療養所の孤独な患者たちも同じだった。寝台から起き上がる事すらできない、瘦せた頬に涙が伝う。


 ルゥとバルドは一番後方で聞いていたが、ふと見た隣の横顔が、これまでになく悲痛な表情をしている。


「バルド?」

「……ここは嫌いなんだよ。辛気臭えし、死がすぐそこにあってよ。戦場を思い出す」


「泣きそうなのかと思った」

「ケッ、泣かせてみろってんだ」


 言い返されると、いつもの顔に戻っていた。


「フランの奴は、そんなに酷かったのか?」


「ああ。痛い、苦しいって手が壊れるまで打ちつけて。見てられないくらいだった。それに、被害を出してしまったのを気にしてると思う」


「あいつは俺と違って、他人を傷つけて平気でいられるヤツじゃねぇ。今度のことは引きずるぜ」


 そう言われると、ますますルゥは自分の責任を感じてしまう。

 

「だから、黒羽の主をぶっとばして、実験装置を取り外させるんだ。絶対に。あんたにも協力してほしい」


「始めからそう言えっての。俺はそういうのが得意だからな」


 ニタリと悪そうな笑みだった。


 やがて演奏が終わり、拍手が起こった。マーシャが手の甲で涙をぬぐっている。


「あの子はつらいことがあったのでしょう? それでも優しくて強くてえらいわね。わたしも頑張って生きなきゃね。オーナーは今日は来ないのかしら?」


「フランさんは、ちょっとお腹痛いみたいで」


 一昨日の事件は新聞沙汰になっているから、真実は知らぬまでもマーシャならある程度分かっているはずだ。察してくれたようで「そうなの」と心配そうな顔になった。


「ねぇ、ルゥ君は覚えてる? オーナーが火葬場を買い取る前のこと」

「はい。不吉で怖かったです」


 フランが火葬場を買い取り改修したのは八年前になる。以前の火葬場は暗くて古くて呪われそうで、遺体を焼いた臭気や煙が垂れ流されていた。旧市街の住民ですら誰も近づこうとしなかったのだ。


「それをオーナーが改修してイメージがガラッと変わって、わたしたち火葬技師の社会的地位もずいぶん向上したのよ。以前は街を歩けば、けがらわしいと蔑まれ忌み嫌われたもの」


「なんかひどいですね。だってやってることは聖ザナルーカ教会の聖職者と変わらないのに、向こうはラグナ教の僧服を着ているから神聖で、こっちは蔑まれるだなんて」


「ええ。だから最初の頃、オーナーはデビッキ司教にかなりいじめられたのよ。助けられもしたみたいだけど」


「んげっ! 社会の上澄みのくせにえげつねえ」


 その反応に、くすくすとマーシャは笑う。

 今はもう、火葬場を不吉だという人はほとんどいなくなった。


「だからルゥ君、オーナーを元気にしてあげてね。わたしはもう、そんなに働けないから」


 マーシャは少し寂しそうな目をした。


「ご両親を亡くして一人で泣いていたお弁当屋さんの少年が、こんなに立派になったんだもの。頼んだわよ」


 寂しそうなのはきっと、火葬場での日々が充実していたからだ。


「はい」


 ナユたちと別れて火葬場へ戻ると、炉裏にもオーナー室にもフランがいない。一瞬ヒヤッとするが、よく見ると木蓮柄の応接ソファに黒いものが眠っている。


「普段は昼寝なんてしないのに、やっぱり無理してたんだな」


 もう平気だからと、高温の炉裏で忙しく働いていたのだ。何か掛けるものはないか探し、デスクから膝掛けを持ってきた。


 唇が乾いて白くなっているが、顔色は悪くない。呼吸も規則的で、そっと額に触れると熱は無いようだ。顔にかかったふわんふわんの髪を後ろに撫でつける。赤く傷ついた両手の甲を、指先でなぞった。


「嘘、ばっかり」


 嘘をつかれたこと。噓に気付けなかったこと。そのどちらも、今のルゥにはまるで棘だ。


「おれに何ができますかね。マーシャさん」


 それからしばらくの間、ソファの足下にうずくまりながら、フランのひっそりとした呼吸音を聞いていた。



□■


 起こされたのは明け方近くだった。


「ルゥ! ルゥッ! 起きろ! 僕だ!」


 以前は弁当屋の店舗だった一階の引き戸をバンバン叩く音がする。


「フランさん? こんな時間に」


 近所への配慮ない声からも叩く音からも、非常事態だと伝わってくる。寝起きしている二階から、狭くて急な階段を駆け下り、最後は四段飛ばしてこけそうになりながら着地した。


「今開けます! どうしたんですか?」


 ガラッと扉を開けると街はまだ青白く、火葬場の大きな煙突もぼんやりとしている。だがフランの顔も同じくらい蒼白だった。


「バルドが、家が襲われて死にそうだって……! 一緒に来て!」

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