第三章 願いが叶うなら
Ⅰ 夜明け前
まだ夜も明けぬというのに、警察署には灯りがいくつも点され、ライザ署長が待っていた。
「バルドは⁉︎ どうなの⁉︎」
「できる処置は施したが、傷はかなり深く、出血も多くてな。助かるかどうかは本人の生命力次第だと」
「祈るしかないのか……。ナユさんは?」
「たまたまワタシの家に泊まりにきていて、事なきを得た。今は署長室にいる」
「そうなんだ。よかった」
「襲撃って、一体誰なんですか? あのバルドを瀕死にさせるなんて」
『痛みや恐怖に慣れねぇ奴が命張るより、そういうのは俺に任せた方がいいぜ』
そう言っていたばかりなのに。
「一つ気になる情報がある。一昨日の昼間に、盲目の少女を探しているという男が来たそうだ。その男は長い黒髪に、不気味な赤目をしていたと」
「また黒羽か! くそっ、何がしたいんだよ!」
ルゥが拳を振る。
「ナユさんを探しているのか。それでバルドの寝込みを襲ったのかな」
「署員は居処を教えなかったから関連を証拠づけるものは無いが、お前への人体実験といい、疑うには十分値するな」
「ナユさんにはもう?」
「まだ知らせていない」
「僕から話すよ。会わせてくれる?」
ライザは頷き、三階の署長室へと二人を案内した。
ルゥも急いで家を飛び出したが、フランもかなり慌てていたのだろう。上はチャコールグレーのオーバーコートだが、下はパジャマで靴下も履いていない。
「ライザ署長、お湯は沸かせますか? 温かい飲み物を出したいのですが」
「うむ、あそこの給湯室に、茶とガスコンロがあるぞ」
「ありがとうございます。使わせてもらいます」
茶箪笥に置かれている茶はライザの好みなのだろうか。ドライフルーツを混ぜたものや、花の蕾のように真ん丸い茶葉など、珍しいのばかりだ。そして隣の白い陶器のポットには、大量の角砂糖が入っている。
湯を沸かし過ぎないよう注意しながらルゥが淹れたのは、乾燥リンゴとカモミールの紅茶だ。白いカップに琥珀色の茶が美しい。ナユの方には飲みやすいように角砂糖を溶かした。
署長室では応接ソファにナユとフランが隣りに座り、ライザが向かい合っている。
「温かいお茶です。どうぞ」
「ありがと、ルゥ」
フランがナユの手を取り、カップを握らせてやる。
「ナユさん、詳しいことはライザ署長が調べている途中だけど、夜中にバルドの家が何者かに襲われたんだ。バルドは傷を負って、病院で手当てを受けている」
「ライザ署長の様子で、なにか大変なことが起こったと思いました。けどバルドさんが……、どうして」
「ナユさんには詳しく説明してなかったけど、一昨日僕は大変な騒ぎを起こしてしまったんだ。誰かに操られて魔法の力を暴走させ、たくさんの人に怪我をさせてしまって。元は僕の身勝手な行動が引き起こした事だから、バルドからも怒られた」
「そうだったんですね。でも操られたなんてこわいです。それにひどい。フランさん、おつらいのではありませんか」
「ナユさんは優しいね。実は僕が操られて暴走したのもバルドが襲われたのも、楽団殺害事件と関係がありそうなんだ」
「え……」
「僕は手がかりが欲しい。ナユさんにはつらい思いをさせてしまうけど、事件のことを聞いてもいいかな?」
バルドが生死を彷徨っているのと、ナユを探している人物がいることは言わず、フランは茶を口に含んだ。
「はい。バルドさんを襲った犯人を捕まえてほしいです。わたし、何でも答えます」
「じゃあまずお茶を飲もう。せっかくルゥが淹れてくれたからね。おいしいよ」
フランが気に入ったようなので、どこで買えるのか後でライザに聞こうと思う。
「いい匂い。甘くておいしいです」
「本当? 僕も甘いのがよかったな」
「角砂糖ならいくらでもあるぞ。ワタシはこれがないとやっていけないのだ」
「ライザ署長は甘党だもんね。僕はすぐ胸焼けするからなぁ」
「食べたいものも食べられないお前の胃腸は気の毒だな」
「まったくだよ」
「おれが作りますよ、胸焼けしないお菓子」
「素敵です、ルゥさん」
予想外にナユから褒められ、ルゥのニマニマ顔が止まらない。それから自然にフランが本題へ入る。
「ナユさん、イレーヌさんという人を知ってる?」
「……わたしのおかあさんです」
ナユがそう答えるのを予想していたかのように、フランは落ち着きはらっている。
「そうだったんだね。実はイレーヌさんのご遺体は今、火葬場にあるんだ。彼女がスヴァルト・ストーンを持っていたのを、僕たちが見つけてね。あの事件の発端は、呪いの石なんだ」
「おかあさんが呪いの石を?」
「聞いたことはない?」
「ないです。でもおかあさんは、バルドさんみたいに呪いにかかってませんでした」
「どうしてそう思うの?」
「バルドさん、夜になると咳が止まらないんです。ずっと苦しそうであまり眠れないみたいで。一昨日は吐いていて、血の匂いがしました。呪いのせいなのでしょう?」
「っ!」
先ほどまでの落ち着きが嘘のように、フランの瞳が動揺している。
鉄肺病だ。それもかなり進行している。
「……それで、あの事件の時、ナユさんはどうしていたのかな」
動揺を押し込め、フランは続ける。
「わたしは少し離れたところで、黒イチゴを摘んでいたんです。トゲで指を傷つけないようにって、おかあさんが手袋を貸してくれました。でも後で迎えに来るって言ってたのに、いくら待っても誰も来なくて。不安になって歩いていると、悲鳴が聞こえました。聞いたこともないような絶叫で、おそろしくて、こわくて、おかあさんとおとうさんを呼びました。そうしたら来ちゃ駄目だって。逃げなさいと言われたんです」
想像するだけでルゥも恐ろしくなる。
「でも、おかあさんとおとうさんを置いていけないし、どうしていいのか分からなくて。そうしたら血の匂いが近づいてきたんです。どんどん濃くなってきて。その匂いで気持ち悪くなって、動けなくなって……。後のことは覚えていないんです。気がついたら、バルドさんがいました」
「バルドからは何と聞いたの?」
「楽団は全員野盗に殺された、その後野盗同士も争いを始めて、生き残ったのはお前一人だけだって。何か覚えているかと聞かれましたが、今と同じことを話しました。フランさん、教えてください。おかあさんはどうして火葬場にいるんですか? 遺体は全てあの場所に埋められたとバルドさんから聞きました」
「これは僕の予想だけど、楽団が襲われたのはスヴァルト・ストーンのせいだ。襲われた時、イレーヌさんはまだ生きていて、石を奪われないために旧市街へ逃げて来たんじゃないかな」
「そうなんですね。石を持っていたせいでおかあさんとみんなは殺されて、バルドさんは呪いにかかって。フランさんまで人を傷つけただけじゃなく、傷ついたのですよね。石のせいで……! そんな石なんかこの世から消えてしまえばいいのに!」
うううっと嗚咽が漏れ、ナユの目から涙がこぼれる。傷痕の残る手で、フランがナユの肩をふんわりと抱いた。
「つらい事を思い出させてごめんね。話してくれてありがとう」
やさしく背を撫でながらもう片方の手でコートのポケットを探るが、ハンカチが無かったようだ。代わりにライザが差し出す。
「っく、バルドさんには会えますか? このまま死んじゃうなんてこと……」
「うむ、今はまだ治療中なのだ。終わったら会えるから、もう少し待とう。大丈夫、病院は隣だから、連絡が来るのもすぐさ」
ライザの言葉にフランもルゥも頷く。今はそう信じるしかない。
それからライザは何かをフランだけに耳打ちし、少し休もうとナユを連れて奥の部屋へ入って行った。署長室にはルゥとフランの二人だけが残る。
「あの石のせいでナユちゃんの運命が変わってしまって。しかも66番の男! どうしてナユちゃんを」
「ナユさんと僕の共通点というと、半端な魔物なことだね。僕は父方にも母方にも祖先に魔物がいて、血は薄いけれどたまたま力が強く出たと子供の頃に聞かされた。ナユさんはお母さんが魔物だ。だからナユさんのことも実験台にするつもりじゃないかな」
「そんなっ! ナユちゃんが暴走なんて……」
「ああ、絶対にさせないよ」
フランは立ち上がる。
「ナユさんはライザ署長に預けておけば安心だから、着替えてデビッキのところへ行こう」
「はい。モノリ主任にも伝えます」
外に出ると肌が痛いほどの寒さだ。
「バルドのヤツ、発病してるなんて一言も言わなかった。僕も気付けなかったよ」
コートの襟を立て、ポケットに手を入れて白い息を吐くフラン。
療養所でバルドが見せた悲痛な表情は、病人を見ていると自分の近い将来を想像してしまうからだったのだろうか。
まだ夜が明けきらない旧市街は、いつも以上に黒く冷たかった。
一旦自宅でシャツの上にニットとコートを重ね、モノリの家へ走る。早朝に起こされたにもかかわらずモノリは手早く身支度を済ませると、二人でフランの自宅前に霊柩車をつけた。この時間なので人通りはほとんどなく、聖ザナルーカ教会にはあっという間に到着する。
教会の朝は早いので、既に修道士が朝課に励んでいる。訪いを告げると、礼拝堂とは別棟の司教の執務室へ案内された。金色できらびやかな礼拝堂とは対照的で、薄暗い廊下には何の装飾もない黒鉄の燭台が点々と灯されているだけだ。傷だらけの床板も古く、靴音がもろに響く。
執務室に入ると、枝を広げた大木のような本棚が視界を覆う。本の森の中央にデスクがあり、オイルランプで手元を照らしながらデビッキが書き物をしていた。
「おはよ。こんな朝早くからおれに会いにきてくれたの?」
眠気は一切感じさせぬ笑顔。だがフランの方はにこりともせずデスクに寄ると、冷たい外気以上に冷ややかな声で、開口一番に言った。
「どうしてバルドを襲った?」
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