Ⅱ 新市街 光の御子
燃えない遺体は女性だという。炉裏から火葬炉内部を見るための小窓からは、血の気のないくすんだ手足が見えた。つまり棺は燃え尽きたのだ。が、体と服には火がついた形跡がない。
「確かに妙だね。他の炉は?」
療養所へ出発前に、今日の最終火葬となる炉には火を入れてきた。三号炉は修理中なので、全部で三体だ。
「一号炉と二号炉は冷却まで完了しています。燃え方も特に問題なく」
「じゃあもう一度着火してみようか」
「しかしオーナー、今日も件数多かったですし、無理をされては」
「平気だよ。中に入れる?」
モノリが頷き、耐火合金でできた重い扉を開ける。熱風と独特の甘ったるいような複雑な匂いをぶわっと浴び、思わずルゥは後ずさってしまったが、フランはすたすたと入っていく。
この火葬場では、遺体を燃やすのはガスの炎ではなく、フランの魔法の炎なのだ。だからもし分類するなら、フランも魔物ということになる。
遺体をぐるりと一周して確認し、フランは右手の親指と薬指の先を合わせ、目を伏せた。その姿は、さながら
やがて、立てた人差し指と中指の先に白い炎が灯る。
フランが指をロストルの下の着火装置へと向けた。タイミングを逃さず、モノリが炉裏のレバーを上にして酸素を送り込み、炉に着火させる。
通常、人体を燃やすほどの火力を維持するにはガス燃料が必要だが、魔法の炎には酸素だけあればいい。だからフランが火葬炉から出て扉を閉めると、酸素量を増やし火力を上げるのだが、この時はそうするのをフラン自身が遮った。
「服すら燃える気配がなかった。まるで見えない膜に覆われてるみたいにね。火を止めて、ご遺体を出して」
「かしこまりました」
モノリがレバーを下に下ろすと、すぐさま二酸化炭素で消火され冷却が始まる。通常の炎は千度から千二百度ほどだが、白き炎は最高で五千度にも達するから、燃やすのよりも冷やす方に時間がかかるのだ。
「一体どういうことなんでしょうか、オーナー。あの温度で人が燃えないなんてありえないですし」
「そうだね。何か未知の力がはたらいているとしか思えないけど」
「未知の力。まさか魔物でしょうか」
「まだそこまでは言い切れないけど。ご遺体はどこから?」
「ライザ署長です。三体同時に持ってこられました」
ノールデン市の警察署長は女性ながら、ぶっとい鎖を肩に食い込ませて棺桶三基を引きずって来るのだ。中身は犯罪に巻き込まれた身寄りのない遺体が多い。
「ということは身元不明なんだね。胸元に大きな傷があったね」
「ええ、酷いもんです。近くでも楽団が全員殺されたみたいですね」
治安の悪い旧市街では、死体を道端に転がしておかないのが警察の仕事で、遺族や訴える者がいない以上いちいち調べることはない。ここはそういう街だが、それにしても
やがて遺体が台車に乗せられ運び出されてきた。フランの後ろからおそるおそるのぞくと、三十代だろうか。生前は美しい人だったとわかる。胸元には鋭利なもので抉られたような深い傷が見え、ルゥはすぐに目を反らす。しかしそれ以外に損壊はないようだ。そしてひどく汚れた衣服はおろか、ブロンドの髪の毛一本すら焦げていなかった。
「土葬用の棺を用意して」
「はい、すぐに」
「この時間に持っていって受けてくれるか分からないし、僕も行くよ。準備できたら知らせてね」
「承知しました」
炉裏を後にし、足早に階段を上りオーナー室へと向かうフランの後を、ルゥは追いかける。
「あの傷はやっぱり魔物の仕業でしょうか?」
「さあね」
「ところで、土葬というとザナルーカ墓地ですよね? 新市街の教会の」
「そうだよ。君はもう帰ってもいいけど」
「行きますよ。あんな危ないところにフランさんだけ行かせるわけにいきませんから」
きょとんとした目をしばたくフラン。
「危ない? どうして?」
「いーんです。おれが勝手についてくだけですから」
「?」
怪訝な顔のままフランは奥に入って行ったので、手前の応接間でルゥは待つことにした。
ザナルーカ墓地を管理するのは、同名の聖ザナルーカ教会だ。新市街で最も壮麗なこの教会を管理する司教は『光の御子』と呼ばれ、新市街では絶大な人気を誇る人物だが……。
「あのエロ司教、フランさんから頼み事なんてされたら、絶対とんでもない要求してくるに決まってる!」
ルゥが会ったのは一度だけだが、既に要注意人物ランクは最上位で認定済みだ。
準備が整ったとモノリが呼びに来ると、現れたフランは白いレースのブラウスに上下黒の紳士装束に着替えていた。ジャケットの襟や袖口には色とりどりの蝶や花の刺繍が施された、豪奢なものだ。黒羽根で装飾されたつばの広いキャプリーヌハットを被り、小ぶりの黒革のトランクケースと合わせると絵になる。その完璧さに思わず息を飲んだのが、ルゥもモノリもお互いに分かった。
「こちらへどうぞ」
モノリに促され、フランは助手席へ乗り込む。ルゥは棺と一緒の後部だ。
蒸気で動く黒塗りの霊柩車が発車すると、補修されていない石畳の振動で棺がガタガタ音を立てるので、ルゥが押さえた。道幅ギリギリを徐行で進むと、貧しい旧市街では蒸気車などほとんど走らないから、物珍しそうな目で見られる。しかし助手席のフランを認めると、皆小さく会釈をして道を空けた。
療養所も火葬場も、利用者から一切費用は徴収していない。なぜあの人は、貧しく何も持たない自分たちにやさしくしてくれるのか。そんな畏怖と、感謝と、戸惑いが入り混じった視線が霊柩車に向けられる。
空気中の塵で、特に夕刻の時間帯は見通しが悪い。ピンク色のガス灯が並ぶエルター橋を渡ると、川の向こうが新市街だ。急に道幅が広くなり、緑色の屋根の蒸気車とすれ違った。ノールデン市は金持ちが住むのが左岸の新市街、貧乏人は右岸の旧市街なのだ。
目的の聖ザナルーカ教会に着いた時刻には、すでに正面の重い扉は閉じられていた。
「遅かったでしょうか」
モノリが何度かノックを繰り返すと、助祭が覗き窓から顔を出す。
「本日は終了しておりますが、どちら様でしょうか」
「時間外に申し訳ありません。デビッキ司教にお会いしたいのですが。火葬場のフランより、火急の用件とお伝え願いたい」
「少しお待ちください」
先を越されてしまったが、こういうのは本来秘書の仕事だ。
モノリ主任が仕事出来すぎるから……。
悶々とした気持ちになり待たされること五分ほど。すると「お入りください」と扉を開けて迎え入れられた。
さほど広くはないものの、礼拝堂の奥へ向かって太い柱と彫像が立ち並び、天井アーチが幾重にも広がる景色は圧巻だ。よく見ればアーチにはレースのように細かい飾り彫りが施され、これを仕上げる職人はきっと無限地獄だったろう。まだ灯されたままのたくさんの燭台に照らされ、一つ一つが金色に反射し、迷宮に迷い込んだような感覚に陥る。椅子や講壇といった木製部分にまで金の装飾があしらわれ、全部が光を放っているのだ。
旧市街にもラグナ教の教会はいくつかあるが、新市街のこことは何もかもが違う。療養所の裏の教会など、装飾は一つもなく木製の祭壇があるだけだ。
しかも新市街の建物は、均一な大きさに加工されたぴかぴかのクリーム色の石で作られていて、街全体がなんとなしに明るい。それだけでも旧市街出身のルゥには、川の向こう側は異世界のように思えるのだった。
「お待たせ、フラン君。ディナーの誘い? ってわけじゃないみたいだね」
そして鍛え上げられた深みのあるテノールとともに現れたのは、祭壇に降臨した神だった。
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