魂を売る黒い天使と呪いの石

乃木ちひろ

第一章 燃えない遺体

Ⅰ 旧市街 黒服の天使

 火葬場の細い煙突から、白い煙が濁った色の空へ舞う。

 敷地の中央の建物から四方へ伸びるそれは、ノールデン市の旧市街で貧しく暮らす者たちにとって、ただの排煙装置ではない。


 空へそびえるモスクの尖塔さながらの煙突の先は、カワセミの深いブルー。切り出した白亜の石を組んだ重厚な塔は、近くで見ても離れて見ても壮観だ。四本の煙突の中心に建つ中央ホールは、白蓮の花をかたどっている。重なり合う花弁がアーチ状の天井になっている様は、旧市街の住民にとっては心に咲く一輪の花だ。

 そこが自分の職場だと思うと、ルゥはちょっと、いやかなり嬉しい。


「あ、置いていかないでくださいよフランさん。おれは鍋を持ってるんですからね」

 上ばかり見ていたから、前を行くオーナーの背中がだいぶ小さくなってしまった。ふわんふわんした白金色の頭を慌てて追いかける。


 旧市街の建物は大きさの揃わぬ石をそのまま積んでいて、長い年月を経てどこもかしこも黒ずんだり苔むしている。そんな住宅が左右からせり出す狭い通りには、屋根代わりに洗濯物が列を成している。この街は冷たい曇り空が多いから、なかなか乾かないだろう。


 なだらかな石段を上り、古びた小さな教会の裏手にあるのが療養所だ。持ち主を何代も変え、工房や飲食店として使い込まれてきた建物では、来たるべき死を待つ人が常時十名ほど滞在している。年代は二十代から五十代まで様々だが、どれも身寄りがなく、看取ってくれる親しい間柄の人がいないのが共通点だ。


 フランが中に入ると、近くで男性患者の体を拭いていた看護婦が手を止め挨拶する。患者は小さく手を振り、フランも振り返した。


 コツコツとショートブーツの靴音を響かせ、向かったのは一番奥の寝台だった。布団から出ている上半身は男性にしては異様に細く、呼吸を示す胸の動きがない。病で肉がこそげ、皮がたるんだ白茶けた顔に、一瞬死んでいるのではとルゥはぎくりとした。


「ドーソンさん、聞こえるかい。僕だよ、フランだ」

 包み込むやさしい低音の声に、男性の瞼がほんの少し開かれる。

「おぉ……、お……、こりゃあ天使のお迎えか」


 天使。そう見えても不思議じゃないとルゥも思う。白金のふわんふわんヘアに、ちょっと青白いけどもちふわの肌なんて、絵画に描かれる天使そのものだ。しかしルビーよりも遥かに赤が際立つ瞳は、じっと見つめられたら堕とされそうな危うさと繊細さを秘めている。


「何を言ってるの。この間、僕の料理人のスープを飲みたいって言ってたよね。約束通り、今日は持って来たんだよ」

 男性にはもはや表情を動かす力はないが、それでも嬉しそうなのがルゥにも分かった。


「起きられる? ほら」

 首の下に腕を入れ、フランが上体を起こしてやると、男は激しく咳き込んだ。だがフランは嫌な顔一つしない。


 前に訪れた時もそうだった。”鉄肺病てつはいびょう”に冒された患者を診るこの療養所で、職員は皆、顔の下半分に布を巻いて看護している。ルゥも建物に入る直前にそうしたが、フランはいつも巻かないのだ。


 鉄肺病とは読んで字のごとく、肺が徐々に硬くなっていく病だ。近代化の代償として水と土と空気まで汚染された影響で、二十代から三十代の九割以上が発病する。発症後数ヶ月で死に至る者もあれば、二十年かけて進行することもある。しかしどの場合でも末期は呼吸するたびに肺が痛み、高山にいるような苦しい状態が長く続く。そして治療法はなく、五十代までには確実に死に至るのだ。この男性は四十代だろうか。

 この療養所でも治療らしいことはできない。痛みを緩和する気休めの薬を投与し、死ぬときは一人ではないというだけだ。


「悪ぃなぁ……。せっかくなのに、今日は食べられる気がしなくてなぁ」

「今日も新聞を読んでたの?」

 布団の上には今日付の新聞が置いてある。彼の日課なのだろう。このインクにも発病の因子となる有害物質が含まれると聞いたことがある。


 一面はノールデン市の近郊で、楽団の一座が全員惨殺されたと報じていた。

「魔物の仕業かなんてぇ書かれちょるが、まるで時代が何百年も巻き戻されたみてぇな……」

 そう言われて、ルゥは紙面に目を走らせた。


 魔物というが異形とは限らず、また心の善悪も関係なく、魔法を使うものを総称してこう呼んでいる。時に人から迫害され、あるいは恐れられながら人と歴史を共にしてきた。いつの間にか人と同化して、見た目ではほとんど区別がつかないし、ましてや人を襲うような事件は百年単位で起きていない。


「今日はなんだか字も見えねぇんだ。悪いがちっと読んでくれないか?」

「いいよ。ストラード街道で十九日から二十日の間に、男女二十五名が全員死亡した。うち十六名は女子供を含むダリル楽団一座で、興行のためノールデン市へ移動中だった。残り九名は全員男性で、楽団を狙った野盗とみられる。どの遺体にも、巨大な刃物で切り裂かれたような大きく深い外傷があり、顔は恐怖に染まっている。ごく短時間で全員が殺害されたことから、魔物の襲撃とも考えられる。だってさ」


 人が人を殺す方がよほど多い現代にもかかわらず、シリアルキラーは魔物だと蔑む匂いも感じられる。この記事を書いた記者は一体どういう了見なのだろうと思ってしまう。

「楽団を狙った野盗もひでぇが、もっとひでぇ目にあっちまっ……ゲホゲぇホッ」

 咳込んだドーソンの背中をさするフランに促され、ルゥは大事に抱えて持ってきた琺瑯ホウロウの両手鍋の蓋を開けた。


「はじめましてドーソンさん。フランさんの料理人のルゥです。あと秘書と雑用係も。ご所望の玉ねぎのスープを作ってきましたよ」

 細かく刻んだ玉ねぎを飴色になるまでじっくり炒めてブイヨンで煮込んだ、コクと甘みを感じるスープだ。ドーソンから好きな食べ物を問われたフランが、これと答えたらしい。


「僕の料理人が心をこめて作ったんだよ、一口だけでもどう?」

 ドーソンが小さく頷いたので、ルゥは床頭台に置かれた茶渋で変色したカップへ、三分の一ほど注ぎ、フランに手渡した。


 フランが手にした匙から、スープの深みのある香りが上る。匙を口に含ませてもらったドーソンの喉が上下した。

「あぁぁ、うまいなぁ」


 口にできたのはたった一口だけ。それでも男が見せた顔は、この上なく幸せなものだった。


 間もなく眠ったドーソンに布団をかけてやり、二人は療養所を後にした。鍋ごと預けてきたので、今夜は皆にふるまわれるだろう。

「フランさん、あの人はきっともう……」

 もしかしたらこのまま目覚めないかもしれない。


「彼はね、いつも『なんでこんなんなっちまったかなぁ』が口癖なんだ。けど今日は言わなかったね」

 貧民街の旧市街には、過去成功しながらも様々な事情で転落してやって来た者も少なくない。彼もそんな一人なのだろうか。


「最後に君の料理で笑顔にできたじゃない」

「それは料理人冥利に尽きますけど、フランさんはつらくないんですか? その、あの人に火を付けるのは」


 上から下まで黒服のフランは、白亜の火葬場のオーナーだ。だからドーソンを火葬するのは、フラン自身になる。


「僕はご遺体の過去には一切触れないことにしてる。それに火葬は魂を解放するものだし、安らかであれとは願うけど、それ以上は何も感じないよ」

「そういうものなんですか」

「色んな考え方があるよ。それこそ人の数だけね」


 療養所を運営しているのは他ならぬフラン自身であり、火葬の間を縫って度々ここを訪れては、孤独な患者の話し相手になっている。人の温もりを最後に感じたのはいつだったかというしなびた芋のような手を握ってやり、咳込んだ時には背をさすってやるのだ。


 優しくしてしまうと後がつらくなるのではと、ルゥは勝手に思ってしまう。現に、スープを飲んでくれたドーソンが明日にでも火葬場に運ばれてくるのではと考えただけで、気持ちが塞いでしまう。


「おれはまだ、フランさんのようには消化できません」

「そこが君の良いところじゃないかな」

 

 火葬場には表から見えない、炉裏という作業場所がある。二人が戻ると、四号炉の炉裏に火葬技師たちが集まっていた。フランの姿を認めると、皆が「おかえりなさい」と迎える。


「何かあったの、モノリ」

「はあ、それが、こんなことは前代未聞なんですが。私もまだ自分の目が信じられないくらいで。しかし本当なんです」

 問われて答えるのは、この道二十年のベテラン技師長のモノリだが、小さな瞳をキョトキョトさせて明らかに困惑している。


「どんなに火力を強くしても、ご遺体が燃えないんです」

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