音楽ホールと神明社-恋と御縁の浪漫物語・浜松町編-
南瀬匡躬
恋するオーディエンス
浜松町には僕のお気に入りの神明社がある。
「
芝神明の石段を下った先の商店街。一人の女性が日傘を差してすれ違う。ちょうど十五号線に通じるあたりだ。その顔には見覚えがあった。僕を呼び止めたのは、かつてバイト先で知り合った
「あ、鯖江さんだ」
「ひっさしぶり。成人式以来だね」
「そうだね」
「もう二十五歳だもんね。どっかの会社に勤めているの?」
「うん、東西百貨店」
そう僕は百貨店の外商部でお得様のお世話をさせて頂くことが多い。特に夏のお中元の進言をすることで、気の利いたご進物を紹介できている。
「お、老舗だねえ」
物怖じしない気さくな彼女の話し方は相変わらずといった感じを受ける。
「鯖江さんは? 音大だったから、そっちの道かな?」
「あはは、覚えていてくれたんだ」
「もちろん」
僕は彼女の家の前を通ると聞こえてくるショパンが大好きだった。品良く、癖もない、あの彼女が弾くピアノの音を立ち止まって聴きいったことは、一度や二度じゃない。ただしそんなことは彼女の前で口が裂けても言えない。単なるバイト仲間だ。
「実は来週が私のコンサートでね、その下見に来たんだ」
「そこの貯金ホール?」
「そう」
この神社の近所には大きな音楽ホールがある。正確には多目的ホールだと思う。詳しくは知らないが郵便局関連のホールだった筈だ。
「音大に行ってたし、やっぱり演奏家になったんだね」
「うん。でも演奏家って言えるような身分でも無く、結婚式やイベント会場で
僕の言葉に照れくさそうに由佳は笑って答える。日傘が僕の視界を遮っていたが、よく見れば、彼女、おしゃれな格好をしている。まるで避暑地にでもいるかのような水色の膝丈のスリップドレスに、白の薄いカーディガンを羽織った女性らしいファッションだ。華奢な肩幅はピアニストとしては、一般に不利では無いかと思われるが、女性としての魅力には一役買っている。
「結構良いところで演奏するんだ」
「オファーじゃ無くて一般貸しだから、大変だよ」と笑う。
僕には想像もつかない商売なので、謙遜なのか、本音なのかもいまいち分からない。そもそも僕自身、音楽ホールを借りることなどに縁がないし、この先も一生なさそうだ。
「そっか。夢、追いかけているんだね」
少し彼女は恥ずかしそうに笑った。良い笑顔だ。若者が持つ特有の夢に向かって走る象徴のようだ。
「鱒沢君は?」
「日常に追われて、夢を見ている暇も無い」
そう言うと彼女は悪戯顔でウインクをする。
「私の夢、見に来ない?」
そう言って右手の人差し指と中指でヒラヒラと紙のようなものを揺すっている。そしてそれを僕に手渡した。
「八月一日。八朔参りの後にでも寄れるでしょう。時間は午後六時半からよ。待っているわ」
僕は手渡されたチケットの紙面を見ながら、そこにチケットの代金、金額が書かれていることに気付く。
「じゃあ、お金払うよ」と言うと、
「いいのよ。今度ご飯でもおごってよ。それでいいわ」と返す由佳。少しだけ僕だけへの特別? という感情が僕の心をくすぐる。だがすぐに自制し、心を戒めて、『昔からの知り合いへのご厚意』と高ぶる胸を無理矢理落ち着けた。彼女のような女性が僕を相手にするはずなどないからだ。
彼女、しばらく物静かに人差し指を顎に当て、「あ、でもそっち方が高くついちゃうかな?」と首を傾げる。
「いいよ。それで」と笑う僕。
「沢山ご馳走するよ」と加えると、
「私遠慮知らないわよ、いいのかなあ」と由佳は企みのような目で笑った。
夏の日差しが、その彼女の笑顔をいっそう眩しく見せたのは言うまでもない。
それから三十年の月日が過ぎた。僕の頭にも白い髪が随分と増えた。今もあの時と変わらず、貯金ホールの客席の片隅で僕は彼女の演奏を聴き入っている。そして最後のアンコールが終わると、いつものように楽屋へと足を向かわせる。一応これでも関係者になったからだ。
「由佳」
汗とにじみかけたシャドーを落としながら、僕の妻となった彼女は「今日のラヴェルどうだった?」と僕に尋ねる。
「いつも通り、自由に音符が跳ね回っていたよ」と笑う。
「良かった」
「じゃあ支度が出来たら今日のチケット代を払うよ。今日は会席料理を用意したんだ。それでチケット代替わりね。先に車に行っているから、ゆっくりおいで」
僕はそれだけ言うと楽屋を出た。
「ありがとう。ダーリン」
そう言って由佳は僕に投げキッスをした。そして再びドレッサーに向き合う。
由佳は僕の妻。家計も一緒なのだが、彼女の開く演奏会のチケット代を、僕は相変わらず払わない。その代わりに夕食をご馳走するのが我が家流なのだ。そう、あの日の神明さまの再会以来。
(了)
音楽ホールと神明社-恋と御縁の浪漫物語・浜松町編- 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami
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