お稽古ごと

増田朋美

お稽古ごと

寒い日であった。もういよいよ冬が近づいてくるんだなと思われる日であった。昼間は暖かいけれど、朝晩はめっきり寒い。それは正常な四季の動きだからまだいいけれど、寒いというのに、対応できないで、文句ばかり言ってしまうのが人間である。

その日も、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようと、奮戦力投していたところ、

「こんにちは。」

やってきたのは、浜島咲であった。一緒に、若い女性も居る。

「ちょっとさあ、相談に乗ってもらえないかしら。困ったことがあって。」

咲は、とりあえず彼女を、四畳半の中に入らせた。

「はあ、はまじさんの言うことだから、また色無地の着物が手に入らないとか、博信堂の楽譜が見つからないとか、そういうことかな?」

もう、彼女の相談内容も杉ちゃんはわかっているらしい。

「そうなのよ。最近、苑子さんのそれが、ひどいのよ。だから、相談に乗ってもらいたいのよ。」

咲は、申し訳無さそうに言った。

「ひどいって、どんなふうにひどいんですか?」

水穂さんが、布団に座って、咲の話を聞いた。

「それがねえ。今日初めて入門してきた人に、やる気ないのかなんていきなり叱ったりして。それでは、やる気なくなるのは当然よ。だって、お琴を習いに来るんだったら、色無地を着るのが当たり前だなんて、そんな事、誰も知らないわよ。それなのに、苑子さんたら、せっかく着物で来てくれたのに、褒めもしないで色無地を着てきなさいなんて怒り出して。」

杉ちゃんも水穂さんも、咲のとなりに座っている女性を見た。彼女は、白に大きな桜の花を染めた、袷の着物を着ている。

「そうだねえ。それはそうなんだが、お琴の教室に、化繊のポリエステルの着物を着ていたら、ちょっと先生をバカにしていると取られても仕方ないな。」

杉ちゃんは、とりあえず答えを出した。

「そ、そうだけど、ポリエステルなのか正絹なのかなんて、よくわからないじゃないの。誰かが教えてくれれば別だけど。だって、何も情報が無いのに、いきなり着物を着て来なさいなんて言って。彼女が頑張って着てきてくれたら、今度はやる気ないのかなんて怒鳴りだして。それではやる気くすわよ。誰だって。」

咲は、彼女をかばうように言った。

「まあねえ。それで、その着物を買ったときに、呉服屋さんなんかは、注意しなかったの?化繊の着物だから、お稽古とか改まったところには着てはいけないよとか、言ってくれなかった?それも重要な職務怠業だよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「それが、彼女メルカリで購入したみたいで、そういう注意書きは何もなかったそうです。袷か単衣かは、サイトに書いてあったらしいですけどね。だから着用時期は間違えなかったそうだけど、それ以外には何も注意書きも載ってなかったそうなのよ。」

と、咲が彼女をかばうように言った。

「はあ、そうか。店以外の手段で買うことも今はできるんだな。」

「そうなると、素人が販売しているということもありますから、素材のこととか、柄のこととか、必要な情報が手に入らないで、購入できてしまいますね。」

水穂さんと杉ちゃんは、そう言い合った。確かに、メルカリは気軽に不用品を処分できるが、販売するのは知識のない素人だ。そうなると呉服屋のような、着物の知識があるわけでもない。それでも売れてしまうのが、メルカリなどのフリマアプリというものである。

「そういうことだから、もうメルカリでは、着物は買わないほうがいい。買うとしたら、リサイクル着物屋とか、そういうところで買うんだな。ちゃんと、教えてくれる方じゃないと、何回もそういう失敗をすることになるぞ。それで、苑子さんに、余計にやる気が無いのかと言われてしまう可能性があるよ。まあ、店の紹介だったら、僕達がするから。今度の事は、ちゃんと苑子さんに謝るんだな。」

杉ちゃんはそうアドバイスした。

「謝らなくちゃいけないことかしら。」

咲が、ちょっと不服そうに言った。

「だって彼女は何も知らない着物のことを、一生懸命勉強しようとしてくれたのよ。それで、着付けだってやっと覚えたの。それなのに苑子さんがああして怒るんだから。それは、あたしはもう少し和らげて良いと思うなあ。」

「そうだねえ、はまじさんの言うとおりでもあるけれど、でも、やっぱりさ、日本の伝統芸能っていうのは、ある程度、現代の考えでは不都合なこともあるんだよね。それは、我慢しなきゃいけないということでもあるんだよ。だからさ、しょうがないと思って諦めることも必要なんだ。日本の伝統を習うということは、そういうことだと思ってさ。一度や二度の失敗は、弟子入りするための試練だと思って、しょうがないと思いな。」

杉ちゃんは、咲の話を否定した。

「そうなのね。でも彼女が一生懸命勉強しようと言ってくれたのは、評価しても良いと思うけど。」

「それは、日本の伝統芸能と、西洋的な現代社会の考えとは違うところだよ。」

咲がそう言うと、杉ちゃんはすぐ言った。それと同時に、杉ちゃんのスマートフォンがなった。あれ、一体誰だろうと急いでそれを取って、杉ちゃんが出てみると、

「雨宮です。ちょっと聞きたいことがありまして。」

「はあ、雨宮真央くんか。一体何のようだ。」

杉ちゃんは、すぐに言った。

「はい。実は着物のことでちょっと聞きたいことがありまして。今、お稽古に使う着物を探しているんですが、紬の着物でも大丈夫ですかね?」

電話で雨宮さんはそう言っている。水穂さんが咲に、雨宮さんというのは、こちらを数週間前から利用している男性で、今金剛流の能を習っていると、説明した。ちなみに製鉄所というのは、単なる施設名で、鉄を作る場所ではない。家に居場所がない人たちが、勉強したり仕事したりする部屋を借りている福祉施設であった。

「ああ、一応、外出着として認められているけれど、お稽古という場所に行くのであれば、紬よりも正絹のほうが良いと思うぞ。着物を探すんだったら、正絹のほうが、無難だと思うけどね。」

杉ちゃんは雨宮さんの質問にしっかり答えた。

「わかりました。じゃあ、正絹の着物を探して帰ります。一応、能楽教室では何も言われなかったんですけど、店のカールさんが一度確認取ったほうが良いと言うものですからね。ありがとうございました。」

雨宮さんはそう言って電話を切った。杉ちゃんははいよはいよと言って、スマートフォンを巾着の中に戻した。

「雨宮さんも着物のことで悩んでいるんですね。」

と、水穂さんが言った。

「まあ、いずれにしても、紬は農民の日常着で、能楽を稽古するときには使用される着物じゃない。だったら、正絹を着用したほうが良い。いろんな着物が格安で手に入る時代だけどさ、それでも師弟関係があるときはちゃんとしなくちゃだめだよ。ましてや、伝統文化のお稽古では、余計にそのほうが良いよ。」

杉ちゃんは腕組みをしてそういう事を言った。

「そうかあ。そう考えるとたしかに、お琴教室でポリエステルの着物なんてのはありえない話になるのか。長らくお琴というものは存在している楽器だけど、ポリエステルの着物が登場し始めたのは、最近の数年だものねえ。それでは怒られるのも、無理はないか。」

と咲は杉ちゃんの話に合わせた。

「でもさ、それでも、彼女が一生懸命着物を着てきたことは褒めてあげても良いと思うんだけどなあ。ねえ、金谷さん。着物を着るのだって大変だったんでしょう?」

金谷さんと言われた女性は、咲に言われて小さく頷いた。

「うーん、そうなんだけど、着物を着ることは、当たり前の世界だからねえ。それは、評価されることでもすることでも無いよ。」

杉ちゃんに言われて、金谷さんと言われた女性は、

「そうですよね。これからはお琴を習うんですもの。着物を着られて当たり前だと思わなくちゃ。私、もう一度サイトをちゃんと見てみます。正絹と書いてある着物を探します。」

と小さな声で言った。

「そうだねえ。できれば、通信販売は使ってもらいたくないね。正絹と偽って化繊の着物を販売することもあるし、さっきもいったとおり、うる側もわかっていないことも多いし。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、売る側だって、急に無理やり押し付けたりさ、好きな柄をだめだって否定したり、それは格がないからこっちにしろって、うるさいくらい説得したりするじゃない。着付け教室に行ったら、余計なもの買わされるし。本当にほしい着物は店では手に入らないわよ。それなのに店で買うのは、なんか嫌になるわよ。それであたしは、インターネットを勧めたのよ、彼女に。」

咲は呉服業界の現実を言った。

「まあ、そういう商売でもあるけどさ、横車を押して欲しいものを買うくらいの技量でいなくちゃ、伝統文化を習うのはできないぞ。これから先、苑子さんに不条理な事言われたりすることだってあると思うよ。邦楽ってのは、みんなで楽しくというわけには行かないから。それは、ちゃんと心得て置かないと、だめになるぞ。」

と、杉ちゃんが咲に言った。水穂さんも、

「そうですね。ピアノを習うのとお琴を習うのはまず違いますからね。ピアノは西洋の楽器ですが、日本の楽器は習うとしたら、一年や二年は掃除係のようなものをやらされて、楽器に触らせてもらうのは、その先だったってことも当たり前にありますからね。」

と、杉ちゃんの話にそういった。

「まあ、とりあえず、着物をメルカリとかそういうフリマアプリで買うのはやめて、ちゃんと知識がある人の店に行くことだな。そして、多少店の人に嫌味や何かを言われても、だから何って言えるくらいの度胸を据えることだ。金谷さんだっけ?もうちょっと強くなろうね。」

と、杉ちゃんは、にこやかに言った。金谷さんは、

「はいわかりました。あたしまだ、着物のことは何もわからないけど、頑張って探します。」

と、しっかり言った。

「只今戻りました。ちゃんと買いましたよ。正絹の着物のほうが、お稽古には良いってちゃんと言ったら、店の人もわかってくださいました。次の稽古のときは、ちゃんとこれを着て、お稽古に臨みます。」

と言いながら雨宮真央さんが戻ってきた。

「あれ、お客さんですか?草履が2つも。一体どなたです?」

雨宮さんは、紙袋を持って、四畳半にやってきた。

「ああ、浜島さん。確か、お琴教室手伝っていらっしゃいますね。あなたの師匠は、下村苑子先生ですね。間違いありませんよね?」

「ええそうですが、なんでその名前を知っているの?」

咲は、雨宮さんに聞いた。

「ええ、僕の能楽の先生も言ってたんですよ。あの下村さんは、伝統文化を守りたいために、厳しすぎるので困ると。随分弟子を困らせているそうですね。それでは、居づらいですね。」

雨宮さんは咲や金谷さんを慰めるように言った。

「へえ、そんなに有名なの?」

杉ちゃんが聞くと、

「有名というか、すごい名が知られてますよ。厳しいことで。なんでも、色無地を着てこなかったことで、弟子をやめさせてしまうという噂がたってます。まんざら嘘でも無いんじゃないですか?浜島さんがここへ相談に来るからには。」

雨宮さんは、金谷さんと咲に言った。

「はあ、そうなんだ。でも、お前さんの能楽の先生だって厳しいんじゃないの?やっぱり、伝統を守ろうと言うことで、必死になっているんじゃないのかな?」

杉ちゃんが雨宮さんにいうと、

「いや、それがね。とっても楽しいですよ。僕は、あまり曖昧な動きというのは好きじゃないんですよね。白か黒で答えるというのが日本の文化でしょ、それが気が引き締まった気がして、すごく好きなんですよ。僕は学校の授業で、日本の文化は悪いと散々言われましたけどね。でも、いざ能楽を習い始めてみると、みんな僕の事を歓迎してくれましたし、優しくしてくれますよ。最近僕は、師匠と他の仲間と国立能楽堂に連れて行ってもらいました。そこで、出演者の方とお話もさせてもらって、すごく楽しかったですよ。だから、日本の文化が悪いなんてこれっぽっちもありませんね。とても楽しくお稽古させてもらっています。」

と、雨宮さんはにこやかに笑っていった。

「へえ、そうなんだねえ。まあ確かに能はやるやつも少ないから、そうやって若いやつが入門してくれると、嬉しいんじゃないのかな。だから、そうやって歓迎してくれるんだね。」

杉ちゃんがすぐに言った。

「中には、絶滅寸前になっている流派もあるそうですからね。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流と、四座一流と言いますが、なかなか担い手がなくて困っていると聞きました。流派ごとの違いを楽しむのも、難しくなっているようですからね。」

水穂さんは、能楽が持っている問題点を話した。

「いいなあ、嫉妬するわ。」

不意に咲がそう呟いた。

「あたしたちは、着物のこととか楽譜のことで散々叱られて苦労しているのに、能の稽古では大歓迎してもらって、師匠と一緒に国立能楽堂まで連れて行ってもらうなんて、羨ましすぎるわよ。そんな事、あたしたちは一回もしてもらったことも無いわ。」

「そうだねえ。まあそうかも知れないが、お琴の世界と能楽の世界はまた違うのかもしれないね。うるさいところもあれば、そうやって優しく歓迎してくれるところもあるんだよ。それはお互いの社中の危機意識の高さということもあるんじゃないの?」

杉ちゃんが、咲に言った。

「じゃあ、あたしたちは、これから苑子さんに不条理な事押し付けられてもずっと耐えて行かなくちゃいけないのに、雨宮さんは大歓迎されて幸せに稽古を続けるの?同じ伝統文化を習うのに、不公平すぎるわよ。」

「まあ、まあそうなんだけどね。まあ日本の伝統文化を教えるやつって言うのは、すごくフランクで優しい師匠も居れば、苑子さんみたいに、孤独であっても伝統を守りたいといい続けるやつも居るんだよ。その落差が激しいというかなんというか、そういう事になっちまうんだ。そういう事は、仕方ないよ。大事なのはどっちを取るかだよな。そして、先生が、きつい人であっても、仕方ないと思うことが大事だよ。」

杉ちゃんは咲と、金谷さんにそう言って励ましてあげた。

「まあいずれにしても、どんな厳しい師匠でも、伝統を守りたくて、それをずっと伝えたくて、頑張っているということは共通しています。そこを掴むことができれば、少し厳しい師匠でもお稽古が楽になれるんじゃないでしょうか。日本の伝統は、なり手がいないので、どうしても伝えたいことが、大きすぎちゃうんですよ。それは異常でもなんでもありません。もし、下村苑子さんが、おかしな事を言っても、それは伝統を守りたくてやっていると考えれば、もう少し気軽に、楽しめるんじゃないかな?」

水穂さんが、二人にそういった。咲は、そうねえと少し考え直して、

「そういうことかあ。」

と、小さい声で言った。

「まあ、雨宮さんが、楽しくお稽古できていると、羨ましくなる気持ちもわからないわけでは無いけれど、まあ、どっちも根っこは同じ。ただ、伝統を守りたくて、厳しくしたり優しくしたりするんだよ。」

杉ちゃんはすぐに言った。

「わかったわ。あたしも、そういう気持ちで頑張ってみる。だけど杉ちゃん、あたしはね。苑子さんに、嫌なこと言われでも一人で黙って耐えてられるような女じゃないわよ。それはなんで?とか、そう思うこともいっぱいあるわ。だからあたしは、これからも、ここへ来て相談させてもらいますから。金谷さんだって同じよね。苑子さんたら、着物のことでさんざん怒るけれど、理由を説明してくれと言ったら、師匠に反抗する弟子として更に叱るんだからね。それは、しょうがない事で、片付けられることじゃないわよ。それに、雨宮くんのように楽しく習い事をしている人が居るんだったら、あたしたちの習い事が大変だってことで相談してもいいわよね?習い事をして、生じた嫌な感情を、あたしたちが仕方ないで我慢しなきゃならないのは、どう見ても不公平だわ。」

咲は、負け惜しみを忘れなかった。その気持ちだけはちゃんと話したかった。正しくそのとおりなのだ。人間、一人で全部の感情を処理して生きていくことはできないだろうから、誰かに聞いてもらうなどしないとだめなのだ。片方が、楽しそうにお稽古ごとをしているのに、もう片方は必死で耐えなければならないというのは不公平である。それで生じた悩みを聞いてもらいたいと思うのはおかしなことではない。

「わかりましたよ。浜島さん。ちゃんと僕も杉ちゃんも話は聞きますから、それよりも浜島さんは山田流箏曲がなくなってしまわないように、奮闘してください。苑子さんのような、偉い方の稽古方針を変えることは、逆立ちしてもできませんよ。苑子さんだって、きっと山田流箏曲が途絶えないようにそう厳しくしているんだと思いますからね。色無地を着ろとか、そういう事は、苑子さんの邦楽への思いだと思ってください。」

水穂さんも咲の話に合わせた。金谷さんがちょっと疑いを持った目で、

「でも、どうしても変えられないというか、現代では手に入らないものだってありますよね。もう道具が手に入らないとか、そういうことだってあるのでしょう?それまで要求されたら私、どうしたらいいか。」

と、小さな声で聞いた。

「そうだねえ。」

杉ちゃんはすぐ答えた。

「それは無いものは無いって言っていいと思うよ。多少、師匠に反抗する弟子と取られるかもしれないけど、そこは要求を押し通すことは大事だと思うよ。まあ確かに、偉い伝統文化の先生は、世間知らずすぎることもあるけど。」

「僕の能楽の先生は、そういう事はいいませんけどね。ちゃんと、楽譜だって手に入るもので良いと、いいましたよ。」

雨宮さんがそう言うので、咲たちはまた気分の悪い顔をした。

「まあそれも、師匠のやり方が違うだけです。そこは本当に申し訳ないですけど、耐えるしか無いと思います。もちろん、僕達は、ちゃんと、嫌なことを言われたら、話は聞きますよ。」

水穂さんがそう言うと、咲と、金谷さんは、

「結局、伝統はなかなか身につけるのは大変ね。楽な世界じゃないわ。」

「私も、頑張って、伝統についていこうと思います。」

と顔を見合わせて言い合うのだった。


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お稽古ごと 増田朋美 @masubuchi4996

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