終曲 Collige, virgo, rosas
私はとてもとても珍しい目を持って生まれたのだと人間は言う。
そうして私は母の乳から離れる前にその人に献上された。
私はその人に愛され、特別で意味のある名を与えられ末子として可愛がられた。
「大好きだよ、ママ」
何度も伝えたい言葉は人間にはニャーとしか聞こえない。私はママの側で永遠に生きていく気がした。その頃はただの猫で、人間の言葉を理解するだけで精一杯で世界のことなんて何も知らなかった。
私は今でもその瞬間を憶えている。
猫として十四年も生きて、年老いた体が少しも動かなくなっていく瞬間を……。
それが私の一度目の死だった。
それなのに私は棺の中でまた目覚めたのである。けれども私は……死んだことに気付いて、理解出来ていたからママに会いに行くことはしなかった。
そんなことをしたらママが他の人間に酷い目に遭うだろうと、なんとなく感じ取ったのである。
私はそれから流浪の日々を続けて、何度も生と死を繰り返して、八度目の生を……愛する人と生きている。
私は脳裏を駆け抜けかけた走馬灯を振り払い、猫の姿へと戻る。
「ウィータエ!」
傷だらけの体を魔道具で治して、倒れ込んだウィータエに駆け寄っていく。
愛しい愛しい彼女。
種族が違えど添い遂げたいと望むほどに愛してしまった吸血鬼。
「わしはもう明日に望むことはない! 全て摘み取った!」
地面に大の字で倒れ込みながらウィータエは大声で叫んでいた。
私はそんな姿すら愛おしくて、死にそうなくらいの傷跡があっという間に消えて綺麗になっていくのを見つめながら、ウィータエの頭の横に座った。
「ご無事ですか?」
「嗚呼、問題ない。神の力なぞに頼りたくはなかったが、これも致し方ないことよ」
私はその瞬間、ウィータエの顔の横に大きな薔薇が転がっていることに気が付いた。
「カルぺディエム、わしの話を聞いてくれるか」
「はい、聞きます。そうしたら私の話も聞いてほしいです。伝えたいことがあるのです」
あっという間に過ぎ去ったように感じた半年程の時間を私は瞳の裏に浮かべる。
私にとって、最高の旅であった。
私にとって必要な旅であった。
そして私にはウィータエ、貴方を添い遂げる相手として愛してしまうには充分な時間だったのです。
でも……長い時間を生きる貴方に私が愛していると伝えれば貴方はどんな顔をするのでしょう。夫婦になりたいと望めば、ウィータエはその時間を与えてくれるのでしょうか?
私がそんなことを考えていると、ウィータエに頭を撫でられた。
「わしはただ、旅をするのに食糧が必要であった。その為の道具として利用しようとした。それだというのにお前は母の教訓だけでわしに糧を与え、そしてわしの旅に最後まで付き合ってくれた。有難う……カルペディエム」
ウィータエは美しく微笑む。私にはその微笑みの意味が解らなかった。
そして大きな薔薇に手を伸ばし掴むと、口付けて飲み込んだ。
パリン
硝子の割れるような音と共に、ウィータエの全身を真っ赤な光が包み込む。
「ウィータエ!?」
光からもう一度その姿が見えた時、ウィータエの姿はまるで衰えた老婆のようになっていた。
私が胸の上に乗っかり、顔を叩いてもただ微笑むだけで腕すら動かさない。
普段から冷たいその肌が
「ウィータエ、どういうことですか!?」
「冷たくなった女の死体の横で泣きじゃくる子供が居たんだ。その日はお腹が
私は一人、語り出すウィータエを見つめることしか出来なかった。
「その日暮らしのものが当たり前にいる時代、いつ死ぬかなんて解らぬ日々の中でもその女は娘を大切に育てていたらしい。子供は痩せてはいたが、
喉を鳴らしてウィータエは笑う。
「人間なんて育てたこともないし、吸血鬼にとっては糧でしかない。それでも……その時、友人だった人間の魔女を訪ねて育て方を聞くくらいには……そうだな、きっと愛おしく思えたのかもしれぬ。あの時はただ、流される侭に生きていたし感情を知らぬ年頃でもあったからわしは苦悩したよ」
私は背筋を泡立てる恐ろしさに耐えきれず、毛を逆立ててウィータエから離れる。
何故だか私にはもう、その先を聞きたくなかったのだ。
「そしてデルフィニウムを失い……あとは奴から聞いた通りさ。
私にはウィータエの言葉が理解出来なかった。否、理解したくなかった。
「消滅って……」
「言葉の通りだよ。わしはこれから消える。魂すらも地獄へ行くことすら出来ず世界から滅される」
「いやだ!」
咄嗟に出た言葉にウィータエは微笑んで、首を振る。
私は受け入れたくなかった。
私は認めたくなかった。
感じ取った恐ろしさの理由がその瞬間、パズルが埋まったかのように理解出来た。
私はウィータエに……置いていかれる。
「どうすれば——」
「カルペディエム、お前の血は美味だった。わしを生かす美しい——」
「言葉なんて要りません。貴方の顔で解ります」
「くふふ、いいこいいこじゃ……かわいいわしのいとし……」
「ウィータエ、愛しています。永遠の愛を誓います。ですから死なないでください。私にはウィータエしかいないのです」
けれどもその声は届かなかったのだろう。美しい瞳は閉じ、ウィータエの冷たい肌がさらさらと砂になっていく。
私が必死にかき集めても、その砂はさらさらと手からこぼれおちていき、風に舞うことすらなく消滅していった。
「いやだ、いやだ、いやだ」
どれだけ泣き叫ぼうとも時は戻らない。
ウィータエの体は、髪一つすら残すことなく消滅していく。
私はただ己の無力さに、ウィータエがいた場所を引っ掻いた。
もっと伝えたいことがあった。
もっとやりたいことがあった。
もっと側に居てほしかった。
焼けて死んだあの時のように喉が痛くて、呼吸が出来なかった。誰かの叫び声が辺りに響き渡っていた。あまりにも喉が痛んで、うるさくて周囲を見渡した。そうして漸く理解した。此処にはもう私しか居ない。ウィータエは此処にいない。叫んでいるのは……私だ。
「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁッ!!」
*<=>*<=>*
きらきらと光が降り注ぐ。
私はその光の中で猫だと言うのに涙を流していた。
それなのにどうして泣いているのか解らなかった。
私はゆっくりと周囲を見渡す。
誰かと一緒に居た気がしたからだ。
それでもその誰かが思い出せなくて、私はただ呆然と座り込んでいた。
首に重たさを感じて見れば首輪が付いていた。けれども私には誰がそれをくれたのか解らなかった。
祝福のように光の差し込む瓦礫の真ん中で、私は私自身が何故そこに居るのかすら思い出せない侭、胸中を支配する悲しさと虚しさに全身を震わせて丸くなる。
ああ、まるで最後の
そうしてしまえば全て失う気がするのに、それなのに私は眠気に抗えず目を閉じた。
—了—
Ⅳの薔薇 沙羅双龍 @syarasoryu
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