第七楽章 ただ、君の脈でもう一度眠りたいだけだった

 魔法を使った反動でウィータエは数ヶ月動けず、カルぺディエムに看病されていた。漸く体を動かせるようになった頃には、最初の出会いから半年は経っていた。

「ああ、不味い」

 そう呟きながらもカルぺディエムという糧を味わう。

 そうして二人は最後のカケラの場所へと旅立ったのだった。

 そこは花園の国の辺境だった。

 苦々しい顔をして、ウィータエはその場所に辿り着く。

 古い教会の跡地だ。鼠などの発生で管理されなくなり、あっという間に壁の残骸だけになり、誰も足を踏み入れぬ場所。

 一部残る崩れ掛けた白亜の壁が、当時の荘厳さを静かに語る。

 ウィータエは嫌そうな顔で、壁を通り抜けて当時は扉があった場所から中を覗いた。

「七百五十年ぶりだね、ウィータエ」

「クァットゥオル!?」

 十字架の残骸と思しきものの瓦礫の山の上に、そいつは立っていた。

 真っ黒な四つの翼を広げ、白いローブに身を包む青髪には見覚えがあった。否、忘れる事は出来ない姿だった。

 あの頃とは違い、羽は黒くなり、笑みは薄気味悪くなってしまったが間違いなく四番目の天使、クァットゥオルだった。

「何故じゃ、あの時確かに死んだであろう。わしが心臓を取り出して確認し——」

「クァットゥオルの薔薇は世迷言だっただろう?」

 ニタニタと笑う姿は醜悪で、荘厳で美しかった筈のクァットゥオルではなくなっていた。

 ウィータエは両手を握りしめて、肩を震わせる。

——そうじゃ、あの時ちゃんと天使の言葉に耳を傾けていれば……わしは後を追う選択が出来たかもしれなかったんじゃ。

「嗚呼、人間の世迷言だった。四番目の天使の心臓は薔薇で出来ていて、その薔薇は死者を蘇らせてくれるという……ただの御伽噺フェアリーテイルだった……」

 ギリギリと血が出るまで手を握り締める。ウィータエはゆっくりと瞳を閉じて、それから大きく深呼吸した。

「それでも、それでもわしはその御伽噺フェアリーテイルを信じたかったんじゃ……」

——わしは生まれて初めて手に入れた感情に支配され、天使の言葉など耳にも入らなかった。それくらいに深い悲しみと憎しみが胸を暴れ回り、ただ取り戻すことだけばかり考えていた。

 胸を支配する空っぽの痛み、愛する妹デルフィニウムが与えてくれた感情モノ。それは確かにウィータエのもので、吸血鬼としては失格になってしまったけれども必要なものだった。

 そうして黙り込むウィータエの姿を、カルペディエムが心配そうに覗き込む。

「そこの飼い猫。教えてやろう。この馬鹿で愚かな吸血鬼はたかが人間の娘一人の命を蘇らせたいが為に、ぼくの話を聞かずぼくを殺したのさ。君のように素晴らしい名前を持つなら解るだろう。天使を殺すことがどれだけ罪深いかを——」

「私はそれが罪だとは思いません」

 そうハッキリと断言するカルペディエムの顔には凛とした美しい光が宿っていた。

 その光に懐かしさを感じて、ウィータエは顔を手で覆う。

「世迷言でも信じたくなるのです。それが残されたものの気持ちですから……私にはそれが、よくわかります。例え猫でも私にはよくわかるんです」

 泣きたくても涙なんて出ないウィータエを、カルペディエムがゆっくり抱きしめる。その温かさがウィータエにとっては毒だった。それでもその毒を飲み込み、深呼吸する。

「私はママの日記を読みました。ママは世迷言には頼らず私の名前の意味を噛み締めて生きることを決意し、前に進みました。けれども世界にはそれが出来ぬものが居るのです。だから人は言葉を残し、御伽噺フェアリーテイルを作るのです」

「飼い主に似て愚かな猫だな、君は」

ゴウッ

 強い風が軽々とカルペディエムを吹き飛ばした。風と共に崩れかけていた教会の壁が舞い踊る。

ドゴォォォォン

 轟音を立てて、あたり一体が崩れ壊れていく。

 咄嗟にウィータエが出来たことは翼を広げて空を飛び、回避することだけだった。

「ゴホッ……」

 瓦礫に強く打ち付けられながら着地したカルペディエムを見つけ、ウィータエは慌てて駆け寄る。口の端から流れ落ちる血にさっと顔を青ざめた。

「平気です、ウィータエ。痛みますが死ぬ程ではないと思います。私の僅かな人生経験なので、貴方にとっては憶測にはなってしまいますが……」

 ウィータエはぎろりとクァットゥオルを睨んだ。

 噛み締めた唇が切れて痛んでも、ウィータエにはそんなこと気にならない。

「さぁ、ウィータエ。あの日を続けよう」

「何故、続けようとする。何故、わしの心臓を解放してまでわしを呼び出した。貴様のその身勝手な行動——」

「君に殺されてしまったからぼくは堕天して、地獄に連れて行かれてしまった。結果、神に愛されていた四番目の天使は神の目に入ることもなく、復活すら許されなかった。それなのに君は神の目に入り、消滅させられる事なく慈悲で生かされている。だからぼくは君に理解してもらおうと思ったのさ。神という存在がどれだけ慈悲深く、そして君がどれだけ愚かかを。そうすれば神はぼくのことを見てくれる。また天使に戻してくれる」

「かっかっかっ、そうか。貴様も人間と変わらぬな。愚かで——」

「愚かなのは君だよ」

 嗚呼、とウィータエは瞳を閉じる。

 短い時間だった。

 きっとカルペディエムなら長い時間だと言うだろう。

 けれどもウィータエにはあまりにもあっという間に過ぎ去っていたかのように感じていた。

——デルフィニウム、わしは姉として愚かで未熟だった。生まれて初めて得た感情に支配され、消息感と虚しさに耐えられず御伽噺フェアリーテイルを信じ込み、与えられた罪と罰を理解せず怠惰に過ごした結果、他人を巻き込んでしまった。

「だからわしは全てを終わらせる!」

 ゴォッと炎がウィータエへと一直線に向かい、襲い掛かる。

 それを避ければ避けた先にいばらが伸び、肌を切り裂き腕を絡め取った。

「小賢しい戦い方をするようになったな。わしを殺したいならばあの日のように強く大きな光魔法を使えば良いものを……嗚呼、使えぬのか」

「おや、君は昔のような召喚魔法を使うことが出来ないのに余裕だね。それに、見るからに衰えている」

「嗚呼、そうかもしれぬな」

 ウィータエは集めた3つの心臓の欠片を握り締める。見据える先に居る悪魔に近しいくらいに穢れ、堕天使となってしまったクァットゥオルを、あの日と同じように殺すべく全身に固く力を込めた。

 その間にも炎の魔法が全身を襲い、身は焼け、吹き起こる風によって皮膚は裂けていく。

 けれども痛みなんて何も感じない。

 ただ耳の奥に声が届く。

『アエテルナエさん、この薔薇は必要有りません。帰ってください。確かに私の中でカルペディエムを失った悲しみは深いですが、それを背負って生きるのが世のことわりです。だから……だから人はその日を摘むのです。明日、死んでも悔いぬ為に……誰かを失っても前に進む為に』

 そう微笑んだベアトリーチェは美しかった。

 理解出来なかった言葉が、今ならば全身に染み渡る。

 あのようになれれば良かったのだ。

 僅かな時間でも人間と共に暮らしたのだから、失った時にどうすれば良いか友人達に頼れば良かったのだ。

 そうすれば永遠にデルフィニウムを奪われることも、友を失うことも、苦痛を抱えて生きることもなかったのだろう。

——嗚呼、今更でも犯した罪を償うことが出来ることに感謝せねばな。デルフィニウム、カルペディエム、わしは其方そなた達と出会えて本当に良かった。もう悔やむことはない。

「さぁ、薔薇を摘もう」

 ウィータエは微笑みを浮かべて、跪いた。

「神よ、我に罰を与えしものよ。今、此処に祈る。我が名はVitae Aeterunae」

 光が降り注ぎ、ウィータエの身を灰へとすべく焼いていく。

「天の国に住まいし永久とわと無限の王よ、我此処に汝にこいねがう。光よりも尊き唯一なる力にてクァットゥオルの名を持つ愚かなる罪深きものに裁きを……Deus iustitia venire!」

 その瞬間、クァットゥオルの天上より雷のように光が一筋駆け巡った。

バリバリバリ

 全ての魔力を使い込んだ反動で、ウィータエは崩れ落ちるように後ろに倒れ込んだ。

「わしは……貴方が言う罪を理解した。わしは吸血鬼、人を愛してはならないもの。罪人が豚となり海へ帰るように、わしもまた無へと歩み出すとしよう」

「その言葉、受け取るとしよう。Vitae Aeterunae、そなたの愛するデルフィニウムは天上の国でそなたを忘れ、幸せに生きている」

 不意に響き渡った荘厳な声は間違いなく神の声だった。

「嗚呼……よかったのぅ……」

 ウィータエは降り注ぐ光を見つめ、己の元へと舞い落ちた四つの欠片が鏡を叩いた時のような音を立てて、一つへと戻るのを感じ取り微笑んだ。

「わしなんかでは幸せにしてやれなかったんだなぁ」

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