第百八十一話 一緒に帰ろう
立っていたのは、涼し気な緑碧の袍姿。
初めて出会ったときに着ていた袍に、香織は混乱する。
(まさか)
自分は幻影を見ているのだ。
耀藍に会いたい一心で。
それでも幻影じゃなく、本物かもしれない、という思いが、言葉を紡ぎだす。
「な、何をしているんですか、こんなところで……」
幻影が、ふ、と頬をゆるめる。
しかしそれが幻影でないことはすぐにわかった。
あの頃とは違って、銀色の髪はきちんと結われていて。
そして、近付いてきた耀藍は香織をじっと見つめて、言ったのだ。
「会いたかった」
その一言が、その声が、すう、と香織の身体に、心に、染み入っていく。
「耀藍様……ほんとうに、耀藍様なんですか……?」
声を震わせる香織に、耀藍はうなずく。
「会いたかったぞ、香織」
ふわ、と溶けるように耀藍は笑んだ。
「耀藍様……どうして……」
「迎えにきた」
そう言って、耀藍の手が香織に向かって差し出され――しかし、その手は虚空を握って下げられる。
静かに、しかしどこか躊躇うように耀藍は言った。
「そなたは、王家の末の王女だから」
言われて、香織は思い出す。李宰相に言われたことを。
「ど、どうして耀藍様がそのことを」
すると耀藍は、耳まで真っ赤になった。
「つ、つまりだな、王家の末の王女はその……術師の花嫁だから」
「あっ……」
香織はまた思い出す。
耀藍の入城の話を華老師から聞いたとき、術師は王家の末の王女を娶るのだと華老師は言っていた。
それはつまり――香織が耀藍の花嫁だということだ。
「そ、そんな」
なぜそのつながりに今まで気が付かなかったのか。
そのことに顔どころか頭の中まで沸騰しそうになったとき、耀藍が叫んだ。
「しかし! 無理強いをするつもりはないのだ!」
「耀藍様……?」
「そなたから大切なものを奪いたくない。おそうざい食堂や、自由を。術師の花嫁になるということは、王城で一生暮らすということだ。そなたにそれを強いるつもりはない……!」
耀藍は苦しそうに言って、香織から目を逸らした。
「なぜならオレは、そなたを愛しているから」
愛しているからこそ相手から何も奪いたくない。
その気持ちが、それを口にする勇気が、痛いほど伝わってきて。
(耀藍様は、やっぱり優しい……)
どこまでも香織のことを想ってくれる耀藍の心が、甘く切なく香織の胸をしめつけた。
(わたしも勇気を出して言おう……!)
あのとき。耀藍が香織の元から去っていった夜。
もっと耀藍に想いを伝えておけばよかったと、後悔したことを思い出す。
同じ後悔は、もうしたくない。
「……わたし、自分が王女だとわかってから、ずっと考えていたんです」
香織は、目を逸らしたままの耀藍を、じっと見つめた。
「わたしは、わたしのために命を落とした者たちのために、王城へ行かなくてはならない。でも、おそうざい食堂を守ってもいきたい。わたし……どちらも選ぼうって決めたんです」
その言葉に、耀藍は顔を上げた。
「王城へ行って、李宰相にお願いしようと思ってたんです。毎日決まった時刻に、おそうざい食堂を開店する時間だけ、外出させてもらえないかって」
「香織……」
「だぶん、李宰相は許してくださると思うんです。だって、耀藍様と一緒に民のことを第一に考えて、芭帝国との交渉に尽力してくださる御方だから」
耀藍の肩の力が抜けていく。
「そうか。それは可能かもしれない……」
術師とは、民に慈愛を注ぐ王を助ける者。ならば、おそうざい食堂を術師の花嫁が守ることも理にかなっている。
「わたし、もっと欲張ろうって決めたんです。大切なものをずっと手の中で守っていくために。愛する人と、ずっと一緒にいるために……」
香織は頬を赤く染めて、それでも何かを決意したように正面から耀藍を見つめて言った。
「だから、お願いします。わたしを王城へお連れください」
――刹那。
香織は、耀藍の広い胸に抱きしめられていた。
「わかった」
耀藍の抱きしめる腕に力がこもる。
「一緒に帰ろう」
「はい……」
ちゃんと返事がしたいのに、胸がいっぱいで震えてしまう。そんな香織を、耀藍はさらに強く引き寄せる。震えを止めようとするかのように。
「ありがとう、香織」
「……え?」
「オレは術師に生まれついたことを、今まで呪って生きてきた。が、今この瞬間、術師であることを心から天帝に感謝している。術師でなければ……香織、そなたと一緒にいられないのだからな」
愛おしむように耀藍は香織の顔から背、髪を撫でていく。その心地よさに香織は身を任せた。
「一緒に帰ろう。そして毎日一緒に食卓を囲もう。そなたの作った料理でないと、オレはやっぱり調子が出ない」
「耀藍様……」
見上げた香織の頬を、伝う雫を、大きな手のひらが優しく包み、ぬぐって。
「もう何があっても離さない。香織は、オレの花嫁だ。よいな?」
「はい……!」
そっと口づけが降ってきて、香織の唇を優しくふさいだ。
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