第百七十四話 耀藍の動揺



「鴻樹っ!!」


 執務室を出ようとしていた鴻樹のところに、耀藍が血相を変えて飛びこんできた。


 耀藍は試食会の後、料理人に決まった聖厨師の献立を精査し、その材料・器材をさっそく手配していた。

 その合間に会談の交渉内容の調整を王や礼部尚書と詰めていたので、ほとんど休む間もなく働いていたはずだ。それなのに。


「耀藍殿、どうされたのです珍しい。ていうか、もう私邸へ戻られたほうがいいのでは? 明日も早くから会議が――」

香織こうしょくが襲われたというのは本当なのか!?」


 術師はその役割の特色上、他の臣下と違い王の私的な部分に関わることが多いが、政のことも把握していなくてはならない。そのため、目や耳となる間諜を複数抱えている。

 加えて、耀藍は大貴族・蔡家の子息。蔡家が独自に使っている者も含めれば、かなりな情報源を持っている。


「さすがに耳が速いですね」

「感心している場合じゃない! なぜ教えてくれなかったのだ!! 香織は無事なのか!?」


 見たことのない耀藍の剣幕に、鴻樹は苦笑する。

(取り乱してあたりも……これは亮賢様がおっしゃっていたことが当たっていますね)


 耀藍の心は聖厨師にあり。

 とすれば――。


 鴻樹ははあ、と息をつく。王との約束を破ることになるが、悪趣味な約束なので喜んで破ることにしよう。


「まずですね、言い訳させていただくと、私はすぐに今日の一件の報告を耀藍様にもしようと思ったんですよ? ですが、王に止められまして」

「亮賢が? なぜ止める!」


 鴻樹は困ったように顎をかいた。


「それが……非常に申し上げにくいのですが、王のいつもの悪戯心というか」

「なに?」

「今日の一件をご報告すると、香織さんが王の末の妹君だということもご説明しないといけないので」

「……?」


 鴻樹の言った意味がわからず、耀藍は口を開けたままで止まっている。


「香織さんが王家の末の王女で、耀藍殿の正統な花嫁だという真実。それを伝えるときに、耀藍殿がどんな顔するか見たい、と王が仰せになられまして……」


 青い宝玉のような双眸が、ゆっくりと大きく見開かれる。


「な、なぜそのような嘘をつくのだ鴻樹……」

(なぜそうなる!!)

 想定外の反応に鴻樹は内心ツッコむ。

「嘘じゃありません! 私がそんな嘘つくわけないでしょう!」

「香織が王家の王女なら、なぜ亮賢も今まで黙っていたのだ!」

「ですから! 本当に込み入った事情がいろいろありまして! 香織さん、本当は麗月という名で芭帝国後宮にいたらしいのですよ。で、芭帝国から追っても掛かっていた。ですから、確信が持てるまで王と私以外にはお知らせできなかったんです!」

「芭帝国後宮……麗月リーユエ……」


 それは以前、華老師かせんせいと香織の話を偶然聞いてしまったときに出てきた名ではなかったか。


「では、本当に香織は」

「ええ。香織さんは王家の末の王女で、耀藍殿の正統な花嫁です」

「……頼む。もう一度言ってくれ」

「ですから! 耀藍殿の花嫁は香織さんです!」

「…………!」


 耀藍は端麗な顔を真っ赤にして口元を押さえた。


 女人慣れを想像させるその美麗な容姿とは裏腹に、まるで初恋の乙女のような反応を見せる耀藍を見て、鴻樹はなるほど、と思う。


(耀藍殿はものすごく純粋で一途なんですね……これは王がからかいたくなるのも頷けます)


 ふふ、っと笑んだ鴻樹はちょっとした出来心に抗えず、耀藍の耳元でささやく。


「香織さんは無事ですが、楊氏が差し向けた暴漢に少し傷を負わせられてしまいましてね。今後はこのようなことがないように、王城へ迎えて差し上げるのがよろしいかと思いますが?」


 鴻樹の意味深な視線に、耀藍はますます耳まで赤くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る