第百七十三話 焦げた卵焼きの味は


 夜。

 後宮で、黄色い歓声が上がっていた。


「亮賢様よ!」

「王の御渡りだわ!!」

「ずっと王城の私室でお休みになっていた王が!!」

「久しぶりに後宮へ!!」


 即位したものの、正妃もおらず決まった寵姫のいない現王。

 それの意味するところは――後宮に住まう女官すべてに王の目に留まる可能性があるということだ。


 主不在でゆるみきっていた後宮に、にわかに緊張がはしる。

「我こそが王の寵愛を!」

 意気込む女官たちは後宮仕込みの早業で己を飾り立て、王が通りかかるのを今か今かと待っていた。


 が、しかし。


「あ、ごめん、今日は佳蓮の宮へちょっと用事があるだけで。また今度ゆっくりね~」


 そそくさと通り過ぎていった若き王を、美しい花たちは唖然として見送ったのだった。





「……佳蓮?」


 女官に通された居間に、佳蓮の姿はなかった。

「少し前まで、こちらにいらっしゃったのですが」

 お探ししてまいります、と女官はあわてて下がった。


「うう、どうしよう。今になって本当の末の王女が見つかったなんて、やっぱり衝撃だよね……あいつは昔から耀藍に憧れてたからな……」

 小さい頃、亮賢と耀藍が王城で遊んでいると、決まって佳蓮も後ろにくっついてきた。「ようらんとけっこんするの」と言っていた姿を思い出すと胸が痛くなる。

 

「……ん? なんだ、この匂いは」


 どこからか、いい匂いが漂ってくる。こんがりと甘い、優しい匂いだ。


「そういえば、夕餉がまだだったな」

 匂いに刺激されて空腹を思い出した亮賢は、匂いに誘われるようにふらふらと居間を出た。


 回廊を渡った場所から、匂いが漂ってきている。


「そうか、あそこは小厨房だったな」

 小厨房は茶の仕度や軽食の準備をするためのちょっとした厨だ。

 佳蓮の夜食だったら相伴にあずかろうと、亮賢は小厨房をのぞいて目を丸くした。


「佳蓮?! 何をしているのだ?!」


 小厨房の竈の前で、襷で袖をくくった佳蓮がなにやら奮闘している。


「お兄様?! なぜここへ」

 佳蓮の手が止まると、脇に控えていた乙が叫んだ。

「佳蓮様! 手が止まっておりますわ! まぜてください!」

「きゃあ、いけない! 乙っ、鍋をっ、鍋を火から下ろして!」

「只今!」


 乙が素早く鍋を調理台の上へ移動させる。


「佳蓮様っ、まだ余熱がっ」

「わかってますわ!」

 佳蓮は急いで菜箸で鍋底をつついているが、焦げの強い匂いと不穏な煙が厨房いっぱいに広がっている。


「あーあー、焦げてしまいましたわ……もうっ、お兄様のせいですわよ!」

「なっ、余は何もしてないぞ!?」

「罰としてお相伴してくださいませね!」


 鍋をのぞくと、そこには焦げた何かがあった。

 ところどころのぞく鮮やかな黄色、そして、厨房の床に散らばった白い殻。

 察するに、卵を調理していたようだ。



「……で、これは何なのだ?」

 再び居間に戻って卓子につくと、佳蓮が白磁の皿を捧げ持って亮賢の前に置いた。

「卵焼きですわ」

「卵焼き?」

「さ、お兄様も遠慮なさらず」


 強制的に箸を取らされ、ごくりと一息呑んでから、亮賢は思いきってこ焦げ茶色の物体を口に運んだ。


「……甘い」

 確かに焦げた苦味もあるが、その下から甘く優しい味がじんわりと顔を出す。

 悶絶覚悟で食べたのだが、普通に咀嚼できた。


「あらほんとですわ! 焦げても意外と食べられますわ!」

「ようございましたね! 佳蓮様!」

「ええ! さすが香織こうしょく直伝の調理法ですわ!」


 亮賢は飲んでいた水を盛大に噴き出した。


「まあお兄様ったら、まるでこどもみたいですわ」

「ご、ごめん……あの、香織って、あの聖厨師の?」


 それは今まさに、この場の火種となる名ではないか。


「ええ。おそうざい食堂の料理人、香織ですわ! あたくし、香織に卵焼きを教えてもらったのです」

「え!? いつの間に?!」

「おそうざい食堂に行ったときですわ」


 そういえば少し前、耀藍の浮気調査に佳蓮がおしのびで外出したらしいと鴻樹から聞いていた。


「香織の料理は素晴らしいのですよ、お兄様。あたくし、料理に目覚めましたの! 自分で作ると野菜も不思議と食べられますの。それを教えてくれたのも香織であり、料理ですわ」

「は、はは、それは何よりだ」

「ええ。ですからあたくし、幸運ですわ! これからはずっと香織にお料理を習うことができますもの」

「はは、それは何より……って、ええ!?」


 身を乗り出した弾みで、亮賢は水の入った硝子の器をひっくり返してしまった。


「まあお兄様ったらまたこどもみたいに……そんなに驚くこともないでしょう。香織はあたくしたちの妹なんですのよね?」

「う、え、あ」

 先手を打たれた亮賢は動揺しまくり、とっさに言葉が出ない。

 亮賢のなんだかおかしい返答も気にせず、佳蓮はふふふと楽しそうに頬杖をつく。


「香織は耀藍様と結婚して、ずっとこの王城に住むのでしょう? でしたら、毎日でも香織と一緒にお料理ができますわ!」

「か、佳蓮? そなた、それでよいのか……?」

「は? 何がですの?」

「だ、だからだな、そなたは幼少の頃より耀藍をその……慕っていたではないか」


 すると佳蓮は、愉快そうに笑いだした。


「お兄様ったら、まだそんな昔の話を。そんなの、幼子の戯言ではないですか」

「た、たわごと……」

「耀藍様は確かに素敵な殿方ですけれど、お料理に熱中したいというこの思いには勝てない程度ですわ。あたくしは今、料理に恋をしているのです!」

「そ、そうか……?」


 ホッとしたというか、気が抜けたというか。

 亮賢は焦げた卵焼きを箸でちびちび口に運ぶ。焦げていて苦いのに、妙にクセになる味だ。


「……あたくし、気付いたんですの」

 卵焼きをやはりちびちび食べながら、佳蓮が呟いた。

「あたくしは、もっと大人になりたいのです。こんな状態のあたくしが耀藍様と結婚しても、幸せになれるはずありませんわ」

「佳蓮……」

「それに香織が相手なら、あたくしすっぱり耀藍様をあきらめられます。むしろ本望ですわ」


 ハッと顔を上げた亮賢が見たのは、一瞬で目尻を拭った佳蓮の微笑み。


「さあ、これから毎日が楽しみですわ! あたくし、耀藍様だけに聖厨師の香織を独り占めさせませんから!」


 高らかに言うその笑顔は、ほんとうに輝いていて。

 負け惜しみでも強がりでもなく、心からそう言える妹を、亮賢は誇りに思う。


 王女として、佳蓮は自ら結婚相手を選ぶことはできない。王族の結婚というのは、時にあからさまな政略結婚になることもある。

――そうであっても。


「佳蓮。余は兄として、そなたを幸せにする伴侶を全力で見つける。約束する」

「お兄様ったら、どうなさったの? 真剣なお兄様なんてヘンですわよ」

「なっ、失礼な。余だって真剣になるときはあるのだ!」


 二人は笑って、焦げた卵焼きをちびちびと口に運び続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る