第百七十一話 明日は明日の風が吹く
「香織、あんた大変だったんだろう? だいじょうぶなのかい?」
明梓が心配そうに顔をのぞきこむ。
「ええ、もう大丈夫です。ご飯を出すのが遅くなってしまって、すみませんでした」
香織は笑顔で、血の滲んだ包帯を袖で隠す。止める華老師の言葉も聞かず、香織はおにぎりを作り続けていた。
「すまないねえ、でも助かったよ。子どもたちは腹を空かせていたからさ。でも、あんたその傷じゃ、この後大変だろう? 厨が使えないっていうじゃないか」
小さい子を連れた母たちは、兵士たちに「立入禁止だ」と押しとどめられて不満そうに口を尖らせていたが、「そうだ!」と手を打った。
「香織も華老師も小英も青嵐も、厨が元通りになるまで、あたしらの家に泊まったらいいんじゃない?」
「そりゃあいいね、厨が使えなくちゃ不便だものね」
「こんな物騒な兵がうろついてたら、香織だっておちおち風呂にも入れないだろ」
「じゃあ、香織は明梓の家、華老師は宋さんち、小英は関さんち、青嵐は呂さんちね!」
「あ、あの、皆さん」
「いいのいいの、気にしないで。困ったときはお互いさまだから」
「そうさ。それに、あたしらも早くおそうざい食堂に復活してほしいからさ」
「じゃあね、仕度したらおいで」
ちゃっちゃと決めて笑いながら、小さい子どもたちと母たちは帰っていく。
「いいんでしょうか、お世話になっても」
「うむ、皆、香織の役に立ちたいのだろうて」
「そうだよ香織、今は近所の人たちを頼ろうぜ」
「そうだな、幸い、壊されたのは厨だけのようだし、片付けにはそれほど時間はかからないだろう」
炊き出しも終わり、香織は使い終わった土鍋を温め、醤油をじゅわ、と回し入れ、サッとおにぎりを焼き付けた。
醤油の焦げる匂いが、あたりに立ちこめる。
「お疲れさまです。これ、焼きおにぎりです」
おそうざい食堂に集まった人々へのおにぎりと見た目が違っているおにぎりを、兵士たちはおそるおそる口に入れて――。
「美味い!!」
「醤油の芳ばしさがたまらん! 食べ慣れている米と醤油なのにちがう食べ物みたいだ!」
「ちょっと固くなった米が、こうばしい醤油味とよく合う!」
「固い部分とほっこりした部分が混ざり合って面白い食感だな!」
兵士たちはあっという間に焼きおにぎりをたいらげ、
「よかったら明日も米を炊きます!」
と競って志願してくれた。
♢
――その夜。
明梓が風呂から上がってくると、かすかな音が戸口からする。足音を忍ばせて行ってみれば、香織がこっそり戸口から入ってくるところだった。
「香織、どこ行ってたんだい」
ひそひそと声を掛けると、香織の背中がびくっ、と動いた。
「あ……見つかっちゃいましたね」
きまり悪そうに、香織は苦笑する。
「ごめんなさい、布団でお話してあげてたら、勇史と鈴々が寝たので、ちょっと……」
「まさか、華老師の家へ戻ってたのかい?」
「…………少しでも早く、片付けたいんです。わたしのせいであんなことに…………」
左腕を押さえた香織の手に、分厚い明梓の手がそっと重なる。
「痛いんだろ、傷。気持ちはわかるが、今日の今日だ。休んだほうがいい」
「明梓さん……」
「それに、あんたのせいじゃないさ。話は華老師に聞いたよ。妬んで暴力をふるうなんて、最低じゃないか。そんな奴のことで香織がクヨクヨすることはない」
「でも」
「あんたは頑張り屋さんだねえ、本当に。でもさ、今日はもう寝て、明日、お日様が高い時間に作業しな。休むことが大事なときもあるからね」
明梓に肩を叩かれ、鼻の奥に温かい痛みがこみあげる。
「ありがとう、ございます」
声を詰まらせた香織の背中をさすって、明梓は香織を布団へ引っぱっていく。
「こんな日は、早く寝ちまうに限るよ。明日になれば、また明日の風が吹くさ」
布団をかけてくれた明梓の手は、母を思い出させる。
それは前世の記憶なのか、麗月の記憶なのか曖昧で。
ただわかるのは、大きな温かい手が香織を安心させてくれたという記憶。
前世、母だった自分がそんな手を持っていたかは今となってはわからないけれど、せめてこの世界で、人々の拠り所になっている場所を失くしたくない。
(おそうざい食堂は守りたい。みんなのためにも。そのために、わたしはどうすれば……)
香織の思考はまどろみのなかに沈んでいった。
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