第百七十話 炊き出しおにぎり
「
「大丈夫か?!」
「うん、応急処置はしてもらったから……
「大丈夫じゃ、手当ては済んでおるよ。傷は多かったが、すべてかすり傷だったしのう」
「青嵐の奴、休めって言ってるのに聞かなくてさ」
「なにかしていないと落ち着かないんじゃろう。わしらが留守の間、大変だったようじゃの」
荒らされた厨が脳裏に浮かび、香織はぎゅっと唇をかむ。
「華老師、こんなことになってしまって本当にすみません!」
「なに、おまえさんが悪いわけじゃなかろう。聞けば、試食会に負けた相手からの嫌がらせだったのじゃろう?」
「ですが、華老師のお宅が荒らされたことに変わりません! わたしが……わたしがここへご厄介になれなければ、こんなことにはならなかった……!」
「香織、そんなことはない。自分を責めるでない」
華老師は言ったが、これまでの事が走馬灯のように流れ、香織は溢れてくるものを押さえられなかった。
「わたしは疫病神です。わたしのせいでたくさんの人が死んだ。青嵐にも怪我をさせてしまいました。華老師や小英にもそのうち厄災がふりかかるかもしれない。いえ、もうふりかかっている。だからわたし……ここを出ていきます!」
二人は思わぬ言葉に目を瞠る。
「香織、なにを言い出すんだよ!」
「そうじゃ、落ち着きなさい香織」
しかし、香織は首を激しく振る。
「わたしは華老師の家にいてはいけないんです……わたしは、行方不明だった王の妹だから」
小英はぽかん、としている。香織の言葉の意味を理解した華老師が、小さな目を見開いた。
「なんと! そういうことであったか! しかし……首の後ろにあった後宮の印は芭帝国のものと見受けたが」
「事情があり、わたしは芭帝国後宮にいました。ですが、呉陽国王の妹であることはまちがいなそうです。だからわたしは……王城へ行きます」
耀藍が佳蓮と幸せに暮らす、その場所へ。
それが自分を命がけで逃がしてくれた人々への弔い。
そして、異世界で香織を助けてくれた華老師や小英、近所の人々へこれ以上の迷惑をかけないための最善策だ。
(王城へ行くことは、わたしが耐えればそれでいい。でも……)
おそうざい食堂はどうするのだ、という声が、頭の片隅から聞こえてくる。
前世でのささやかな夢。料理が好きで、でも人生の時間が進むにつれて生活に追われ、いつしか、あかぎれた手からすり抜けていった夢。
その夢が異世界で叶って、どんなにうれしかったことだろう。
作ったお惣菜を「美味しい」と目の前で食べてくれる人々の笑顔に、どれだけ救われたことだろう。
香織が王城へ行くということは、おそうざい食堂が閉店するということだ。
(みんな、温かいご飯を食べにおそうざい食堂に集まってくれる……それなのに、それでいいの?)
答えが出ない問いを抱えたまま、香織は視線を巡らせる。
禁軍兵たちに抑えられて文句を言っている人々、何があったのかと心配げな人々。その中には、明梓をはじめ、ご近所の馴染みの顔もたくさんある。
「……今、できることをやらなくちゃ」
考えていてもわからないときは、行動する。身体を動かす。
前世から染み付いたその信条が今の香織には辛いが、それでも香織は「目の前のできること」に向かっていく。
庭院の隅、大量の湯を前に途方に暮れる兵たちと青嵐へ。
♢
「香織! 傷はだいじょうぶなのか?! 休んでないとダメじゃないか!」
目を剥く青嵐に香織は首を振る。
「青嵐、外を見たでしょ? みんな、今日もおそうざい食堂に集まってくれているわ」
「そうだけど、今はそれどころじゃ」
「お腹を空かせた皆さんにできるだけのことをしなくちゃ」
香織は兵たちを振り向く。
「皆さん、ここで火を熾すことはできますか? 例えば、お米を炊くことは?」
兵たちは顔を見合わせる。
「そりゃ野戦訓練でやっているが、まさかここで米を炊くのか?」
「はい。どうか火を熾していただけないでしょうか」
香織は深々と頭を下げた。
「あいにく、今の私では野外で火を熾す作業が難しいので」
左腕に巻かれた包帯が痛々しい。薬草湿布のはみ出した包帯には、少し血が滲んでいる。
「これだけ湯があれば、おにぎりを作るお米が短時間で炊けます。どうかお願いできないでしょうか」
おにぎり、という言葉を聞いて兵士たちはごくりと唾を飲む。
「それって、この前の試食会でも出されたっていう食べ物だろ?」
「俺たちも食べていいのかい?」
「もちろんです! お腹を空かせた人全員がお客さんですから!」
兵たちは小さく歓声を上げ、さっそく火を熾し始める。
「香織、あんたって人は本当に……」
青嵐は呆れたように言って、それから笑った。
「まあ、それが聖厨師・香織ってことだな。どんなときも料理とお腹を空かせた人を救ってくれるんだよな」
香織は首を強く振った。
「救われているのは、わたしの方なのよ」
「え?」
「ううん、なんでもない! そうだ、青嵐は休んでて」
「そういうのナシ。香織が食堂をやるなら、俺が手伝う。毎日そうしてきたじゃないか」
痣と傷の痛々しい顔で笑う青嵐に、香織も涙をにじませて笑う。
「ありがとう。じゃあ、青嵐は兵士さんたちとお米を買いに行ってくれる? お米選びは、青嵐がいないとわからないだろうから」
「おう! 任せておけ!」
青嵐は数人の兵士たちと荷車を押して勢いよく出ていった。
♢
「皆さん、お待たせしました! 今日の献立は炊き出しおにぎりです!」
兵士たちを揉み合っていた人々は、パッと顔を上げて、でも首を傾げる。
「香織、炊き出しおにぎりってなんだい?」
「いつものような献立をお出しできない代わりに、おにぎりを無料で炊き出すってことです!」
「えっ、無料?!」
「はい! 炊き出しなので!」
どうやらこの世界には、炊き出しという概念がないようだ。
人々は「無料」と聞いて、それまで兵士たちともみ合っていた苛立ちも空腹もすっかり忘れてくれたようだった。
昆布の佃煮と胡麻塩のおにぎり。それと、破壊された厨の中で生き残っていた豆腐と青菜で味噌汁を作る。
人々は配られた温かいおにぎりと味噌汁を大喜びで頬張った。
華老師宅の周辺ぐるりの地面は、まるで遠足会場のように笑顔でおにぎりを食べる人々であっという間にあふれた。
「たまにはこういう趣向もいいな!」
「そうだな、ちょっとした行楽気分だ」
「いつもの昼餉で行楽気分とは、なんだか得した気分だな。これで酒があれば言うことナシだ」
人々は冗談を言い合って、場はどっと沸く。そんな様子を庭院からのぞいて、香織はほっと胸をなでおろした。
「よかった……みんなが喜んでくれて」
炊き出しというのは有事の際のことだから、食材も量も少ない。
けれども、それを用意する人の心の温かさや思いが伝わって、それがお腹も心も満たしてくれる。明日へ向かうための元気をくれる。
誰かが、誰かのために生きる元気を伝える。
それは、香織がおそうざい食堂で大事にしたいと思っていることそのもの。
そんな炊き出しを、香織は前世、素晴らしい文化だと思っていた。
香織がコツコツと貯めてきた吉兆楼のお給金で青嵐たちにお米を買ってきてもらい、野外で火を熾すことに慣れた兵士たちが庭院で手際よく炊く。
香織はひたすらおにぎりを握り続け、味噌汁をよそっては鍋が空になると作り直した。
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