第百六十九話 ついに出会った両国の思惑と麗月の真実
若き黒衣の宰相は、柔和な笑みを浮かべた。
「
「ちっとも間に合ってないわよ
横から
「どうしてもっと早く来なかったの?! 香織は大怪我したのよ?! 早く手当をなさいっ!!」
「落ち着いてください、佳蓮様。今、
「でもっ、こんなに血が……」
「御安心なさいませ。その者の応急処置は極めて適切ですから」
鴻樹は、香織の腕に薬草湿布を手早く巻きつける
が、その細められた目は笑っていない。
「止血の薬草を携帯し、医師の如き応急処置の技術がある。間違いなく、貴方は我らが警戒していた芭帝国の間諜ですね」
香織だけが、ひどく動揺していた。
(なぜ洸燕さんの正体を李宰相が知っているの?! それに李宰相は、なぜ)
「李宰相、なぜここへ――」
香織が言い終わる前に、鴻樹は香織の前に膝を折った。
「お迎えにあがりました、
その名が鴻樹の口から出たことに香織は心臓が止まりそうになる。
「な、なぜ、その名を鴻樹さんが……っ痛」
動こうとした香織を、洸燕が押さえた。
「動かないでください。止血のために少し押さえていた方がいい」
そこにすかさず鴻樹が割って入る。
「応急処置には感謝いたしますが、あとはこちらにお任せいただき、お引き取りを」
「……そういうわけにはいかない」
ゆらり、と立ち上がった洸燕は、先刻までとは違う殺気を放っていた。
「私のことを嗅ぎつけていたなら、知っているだろう。私が誰の命でここまでやってきたのか」
「ええ、大方予想はついていますよ。おそらく、芭帝国皇太子殿下の命でしょう?」
「では我らが簡単には引けぬこともわかるはず」
いつの間にか
――一触即発。
「……皇太子殿下は、麗月様を妃にお望みで?」
刺すような空気の中、穏やかな鴻樹の言葉に洸燕は色めき立つ。
「望むも何も、麗月様は元々、後宮で皇太子殿下の御目に留まっていたのだ!」
「でも内乱が起こり、そのどさくさで麗月様の行方はわからなくなった。後宮から脱出できたということは、まだ御手付きには至っていないということですよね?」
「だ、だからなんだ! 皇太子殿下が麗月様をお望みなことに変わりはない!」
「ええ、まあ、このように愛らしく、料理が得意で優しい、素晴らしい女人ですからね。皇太子殿下がお気に召すのもわかりますが……筋は通していただかないと」
あくまで余裕な態度の鴻樹に、洸燕は不審気に眉をひそめる。
「……どういうことだ」
「麗月様は呉陽国現王・亮賢様の妹君、つまり王女なのです」
「なっ……」
絶句した洸燕の代わりに叫んだのは佳蓮だった。
「なっ、なんですって?! じゃあ、あたくしに妹がいるかもしれないというのは――」
「はい。どうやら本当だったようです。香織さん……いえ、芭帝国で麗月と名付けられて育ったこの御方は、亮賢様と佳蓮様の妹君なのですよ」
「そ、そんな……」
その瞬間の佳蓮の胸中を察した鴻樹は、少し困ったように笑む。
佳蓮は目をいっぱいに見開いて香織を見つめた。
「佳蓮様……」
香織も言葉を失っていた。
(芭帝国の後宮にいたわたしが、まさか呉陽国の王女だったなんて……わたしも信じられないけど、佳蓮様もそれは驚いたにちがいないわ)
刹那、佳蓮の大きな双眸がみるみる潤む。
その意味を測りかねた香織は動揺した。
(ど、どうしたのかしら佳蓮様)
何か言わなくては、と香織が思った瞬間、佳蓮がたっ、と走り出した。
「佳蓮様!」
「佳蓮様、お待ちくださいませ!」
門をくぐってしまった佳蓮を乙が追っていった。
はあ、と鴻樹は疲労のにじむ息を吐きぼそぼそと呟く。
「これで少しは亮賢様への風当たりが少なくて済みますかねえ。私としたことが、またもや王を甘やかしてしまいました」
「ちょっと待て」
洸燕の硬い声が響く。
「なぜ麗月様が呉陽国の王の落胤だと言えるのだ!」
「様々な調査結果より、とだけ言っておきましょう。お互い、不文律を口にするのも無粋ですしね?」
互いに後宮へ間諜は放っているだろう、ということを暗に匂わせる。
「それに香織さん、貴女は覚えているでしょう?
「!」
文欣、という音を聞いた瞬間、香織の頭の中に記憶の底から渦が現れた。
優しく微笑む初老の男。
いつも後宮で泣いていた香織にこっそり菓子をくれた優しい宦官は、時折、皇帝や皇太子の動向を事細かに聞き出し、外出していった。
(そうだわ、文欣は呉陽国人の間諜だった!)
そして香織――いや、麗月は、文欣に情報を流す役割をせよと言われていた。
それらのことが、文欣という名を聞いた瞬間、一気に記憶の表層へ出現したのだ。
「――母を亡くし、後宮でひとりぼっちだったわたしに、文欣はとても親切にしてくれました……」
ためらうように言葉を切った香織に代わって、鴻樹が続ける。
「そして、芭帝国後宮から脱出するときも文欣は香織さんと一緒だった。彼は貴女を連れて苦労の末に国境を越え、呉陽国へ入ったところで力尽きた。貴女は彼の思いを無駄にするまいと一人必死で逃亡する過程で記憶を失い、建安に流れ着いたところを華老師に拾われた――ちがいますか?」
こくん、と頷いた香織の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わたしは文欣の最後の言葉を頼りに、ただ走った。『建安の王城で王女の名乗りをお上げください。それが我らの悲願です』と。文欣だけじゃない。たくさんの人が、わたしを逃がすために命を落としました。わたしは……彼らの死を弔うためにも、文欣の言葉に従わねばと思ったんです」
香織の様子を見ていた洸燕が、愕然と呟く。
「そんな馬鹿な、麗月様が呉陽国の王女だと……?」
「おわかりいただけましたか? いかに芭帝国皇太子殿下といえども、他国の王女を王の許可なく召し上げることはできない。また、貴国と我が国は国境安全交渉の最中でもある。一度国へお帰りいただき、今一度、皇太子殿下の御意向をお確かめになる必要があるのでは?」
「くっ……」
洸燕は鋭く鴻樹を睨んだが、さっと身を翻すと門の外へ消えた。冷葉がすぐにその後を追った。
「待て!」
追おうとした兵たちを鴻樹が制する。
「君たちでは彼らの足には追いつけないだろう。今は芭帝国との無用な小競り合いは避けたいしね。それに、我らはここへ来た目的を果たした」
鴻樹は再度、香織の前に膝を折る。
「麗月様。私と共に王城へお越しください」
「わ、わたしは――」
香織は、ぐるりと視線を巡らせる。
厨からはひっくり返された水が、扉の外へ静かに流れ出てきていた。
「ここに残ります」
「麗月様!」
「わたしは、おそうざい食堂の料理人です。こんなになってしまったおそうざい食堂を放っておけません」
「しかし」
「王城へは、後できちんと伺います。お約束します。それが文欣や死んでいった人たちとの約束だから……!」
必死に言いつのる香織を見て、鴻樹はふ、と笑った。
「わかりました。言い出したら聞かないところは、亮賢様や佳蓮様に似ておられますね」
「李宰相……」
「その代わり、周囲に見張りは付けさせていただきますよ。怪我のことは華老師がおられるので大丈夫かと思いますが、楊氏やら他国の間諜やら、我らが王女にちょっかいを出したい人が多いようですのでね」
鴻樹は片目をつぶる。今の状況に見張りを置いてくれることは、願ってもないことだった。
「ありがとうございます……!」
「外で華老師たちが待っておられるようだ。呼んできましょう」
そういうと、鴻樹は門の外へ出ていった。
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