第百六十八話 おそうざい食堂の危機



――痛みよりも。

 包丁が握れなくなるかもしれない、という恐怖で頭がいっぱいになった――そのとき。



「おやめなさい!」



 鋭い声と硬い音が響き、弾かれた短刀が地面を滑る。


「っ痛えっ!!」


 男は束ねた髪をふり乱し、短刀を握っていた手を押さえて痛みに悶絶している。

 短刀を弾いたのは――。


佳蓮かれん様?!」

「まさかと思ってきてみればやっぱり!」


 そこには頭から腰まで武具に身を包んだ佳蓮が、木刀を持って立っていた。


「な、なぜ佳蓮様がここに……ていうか、どうしたんですかそのお姿は!」

「どうもこうもありませんわ! 早くここから逃げましょう、香織!」

「逃げましょう!」

 野ネズミのような佳蓮の侍女が、痛みにうずくまる男と香織こうしょくの前に立ちはだかる。

「で、でも今日のおそうざい食堂の献立が!」


 胸が痛むような破壊音、器の割れる音が続く厨を、香織は振り返る。


「香織! しっかりなさって! 貴女は聖厨師せいちゅうしとも称される料理人でしょう! 香織が無事なら、おそうざい食堂はどこででも開けますわ!」

「佳蓮様……」

「料理は作る人とその心が大事だと教えてくれたのは貴女ではありませんか! ここは逃げるが勝ちですわ!!」


 すでに乙が、庭院にわの隅に追いやられていた青嵐の肩を担いできていた。青嵐をいたぶっていた傷の男は、暗い愉悦に浸るあまり背後から近付いてきた乙に気付かず、思わぬ痛手を負ってうずくまっている。


「木刀の一撃に加え、股間も思いきり蹴り上げてやりましたから。あの悪漢はしばらく動けないでしょう」

 しれっと言う乙に担がれた青嵐は「気の毒にな……」と軽口を叩くが、その顔は痣で腫れあがり傷からは血が滲んでいる。


「青嵐……ごめんね、ごめんなさい」

 香織は泣きながら手拭で青嵐の顔の血を拭った。

「香織が謝ることないだろ」

「ううん。わたしが悪かったの。わたしが……この世界の人々に、甘えきってた」


 自分はなんて周囲に甘えていたのだろう。

 異世界にきて、穏やかな幸せを守るためには相応の防壁が必要ということをすっかり忘れてしまっていた。


 43歳主婦の感覚が、再び目覚める。

 穏やかなだけでは、優しいだけでは、大切なものを守れないときがある。


 時には苦渋の決断や、犠牲を払うことも必要で。


 香織は決心したようにぐっと唇をかみ、青嵐に言った。

「逃げましょう。佳蓮様と乙さんの好意に甘えて」

「でも、香織、厨が……食堂が」

「今は青嵐とわたしが逃げることが重要だわ。後のことは無事に逃げてから考えましょう!」

「そうですわ! 行きましょう! 乙、手はずはよくって?」

「はい、少し離れた場所に馬車を用意してございますわ!」

「お願いします乙さん、まずは青嵐の手当を――」

「許さねえぞてめら!!」


 香織の言葉を猛獣のような吼え声が吞みこんだ。


「このおれ様にタテ付くとは……ぶっ殺してやる!!」


 束ねた髪がざんばらになり、男は悪鬼のごとく形相で拾った短刀を佳蓮に向かって振り上げた。


「佳蓮様!!」


 必死だった。香織は佳蓮をかばうように抱きしめた。


 咄嗟に反応した青嵐がその香織を突き飛ばしたが、宙を斬った短刀の切っ先は香織の腕に届いていた。


「香織!!」


 香織の腕から鮮血が溢れ、佳蓮の襦裙に滴る。


「す、みません、佳蓮様、御召し物が」

「なに言ってるの!! 乙!! 早く逃げますわよ!!」


 しかしその時、乙と青嵐は荒れ狂う男に椅子を投げつけて応戦していた。

 その上、厨からスキンヘッドの男が出てきて状況に目を丸くし、ただちに短刀を懐から出すのが見えた。


「くっ、こうなったら先に香織だけでも逃がさなくてはなりませんわ!」 

 香織は自分の手拭で傷を押さえているが、手拭はすぐに朱に染まっていく。佳蓮は奮える足を叱咤して香織の手を引こうとして――肩をつかまれた。


(まだ仲間がいたというの?!)

 どっと冷や汗が噴き出した――瞬間。


「さがってください」

 肩をつかんだ手が優しく佳蓮と香織の身体を引き、落ち着いたささやきと共に風が通り抜けた。



 その刹那、男たちが地面に泡を吹いて倒れていた。


「い、いったい何が……?!」



 目の前に立っているのは、長身の男。鉄槌を下した手刀を解いて振り向いた男は一瞬笑んだが、すぐに緊張の面持ちになって香織に歩み寄る。


「すぐに手当を。布と、湯を沸かせますか」

「あ、貴方は誰ですの?! まままさか新手の襲撃者ではっ」

 恐怖ですっかり疑い深くなってしまっている佳蓮の手を、香織がやんわりと握った。


「佳蓮様、この人は洸燕こうえんさんといって……おそうざい食堂のお客さんです」

「まあ!」


 青嵐が厨から戻ってきた。


「洸燕さん、布は華老師かせんんせいが診察で使うのがあったけど湯はダメだ。厨がめちゃめちゃにされてて、湯を沸かずどころか足の踏み場もない」


「そうか。ならば近くで湯を調達できる場所はないだろうか。青嵐、君も手当が必要だ」

「あ、なら、近所の人んちに――」


 その時、門から若い女が身をひるがえして入ってきた。


冷葉れいはさん?!」

「兄さんたいへん、禁軍の鎧姿の兵が来る! いったん引こう!」



 冷葉が洸燕の腕を取ったとき、たくさんの固い靴音が門からなだれ込んできた。



「動くな! 怪しい奴らめ!!」


 兵たちはあっという間に庭院を取り囲んだ。


「我らは宰相李鴻樹様の命で不穏な輩を取り押さえにきた!」

 兵たちは庭院の隅でうずくまっている傷の男と、短刀を握ったまま泡を吹いて倒れている男たちを手早く縄で縛っていく。


「おまえたちも怪しい! その娘はなぜ怪我をしている!」


 佳蓮と乙、そして洸燕と冷葉にも兵たちはにじり寄る。

 すると、佳蓮がカッと目を見開いて木刀で地面を叩いた。乙は怒りでぶるぶる震えている。


「あなたたち! あたくしを誰だと思っているの?!」

「下郎ども! この御方をどなたと心得る!!」

「黙れ下郎は貴様らだ! 我ら禁軍の精鋭にこけおどしは通じんぞ!」

「んまあ、誰が下郎ですって?!」


 佳蓮はかぶっていた軽装用の兜を取り、首から下げた大きなメダルを取り出す。


「この紋章に見覚えがないとは言わせなくってよ?!」


 兵たちは佳蓮の勢いに気圧され、穴のあくほどメダルの紋章を見て、瞬時に顔が真っ青になった。

 王家の紋章が刻まれたメダルには、紅い宝石が輝く。即ち、目の前にいるのは王家の王女だという証。


「こっ、これはっ……王女殿下とは知らず! し、失礼をいたしましたぁあああ!!!」

 その場に額をすりつける兵たちに佳蓮は地団太を踏む。


「もうっ、わかったらすぐに香織の手当をするのよっ、このグズ共!!」

「ははあっ、ただいま!!」



 厨に入った兵たちは「ひどい……」と惨状にたちすくみ、その兵たちの後ろから青嵐が「そういうことなんで、悪いけど近所で湯をもらうのを手伝ってもらいたいんだけど」と声をかけ、青嵐を先頭に兵たちが数人駆けていった。


「で、貴様は何者だ」


 さっきよりもいくぶん口調は和らいだが、洸燕を見る兵長の視線は鋭い。


「私は……」

「――芭帝国の間諜だ。そうでしょう?」



 いつの間にか門の傍に立つ柔和そうな黒衣の青年に、香織は目を瞠った。



「あなたは……李鴻樹宰相!」


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