第百六十七話 いつもと同じ朝が壊れる音
その日の朝も、いつもと同じ朝だった。
違っていたのは昨夜から続くお祝いモードで、皆うきうきしていることだ。
「いやあ、さっすが
「よく言うよ
「往診の間も、器具を取り違えたり消毒液を間違えたり、心ここにあらずじゃったがのう」
にやにやとツッコむ二人に小英は顔を真っ赤にする。
「なっ、そんなことねえよ!」
そこへ、湯気を上げる味噌汁を持った香織がやってきた。
「小英、ありがとうね。心配しててくれたのよね?」
「お、おう。そりゃ香織のことだから大丈夫だとは思ってたけどな!」
「
「どうってことなかったぞ。
「
「なんの。わしゃ何もしとらんよ」
「いいえ。本当に……みんながいてくれたから実現できたことです。わたしが、特使の料理人だなんて」
根菜の味噌汁をすすって、香織は息をつく。
「選ばれたからには、しっかり御役目を果たします」
「おう、そうだよな! 選ばれたのは始まりだ! 香織の大仕事はこれからだよな!」
「おそうざい食堂の店番なら任せてくれ」
「体力勝負じゃからな。滋養になる薬湯を作っておこう」
「みんな……」
胸がいっぱいになって、鼻の奥がツンとして、あわてて白いご飯に昆布の佃煮と泡菜をのせる。甘さと辛さが混ざり合ってクセになるそのご飯を、香織はこみあげる感謝と喜びと共にかみしめる。
小英と青嵐は卵焼きを取り合い始めた。華老師は笑って二人を見ながら味噌汁をすすっている。
いつもと同じ、穏やかな朝。
でも、「いつもと同じ」がどれだけ尊く、かけがえのないものか、香織は知っている。
ある日突然、それは奪われることがある。
前世、香織の命が突然、あっけなく終わってしまったように。
(みんなと一緒で、おそうざい食堂があって、わたしの作った物がみんなを笑顔にするこの日常を……失いたくない!)
前世では叶えられなかった穏やかな日常は、いまや香織にとってかけがえのないものとなっているのだから。
♢
「じゃあ行ってくるな、香織!」
「気を付けてね小英、華老師。今夜はささやかだけど、ちょっとした御馳走を用意するね!」
「ほう、それはありがたいが、無理せぬようにな。昨日の今日で、疲れておるじゃろう?」
「大丈夫です、今日は吉兆楼にはお休みをいただいていますから!」
「お、じゃあ午後は市場に行くのか? 荷物持ちが必要なら、俺も行く」
「ありがとう、青嵐。アテにしてるからね」
みんながそれぞれ、喜びに笑い合い、興奮していた。
だから、いつものように華老師と小英を見送ったとき、誰も気付かなかったのだ。
街路樹の影に隠れる、不穏な男たちの存在を。
♢
「おそうざい食堂ってえのは、ここかい」
香織と青嵐が奥から長卓子や椅子を出していると、男が三人、門をくぐってきた。
色浅黒く、袖の無い短い上衣から出る腕は隆々として、どの男も身体が大きい。顔の傷や鋭い目つきもあり、かなり威圧感がある。
絵に描いたような悪人風の集団に青嵐は思わず一歩引いたが、香織はいつもと変わらない様子で頭を下げる。
「そうですけど、すみません、まだ準備ができていなくて」
「ああ? この店はせっかく来た客に外でつっ立ってろってえのか?」
汚い長髪を束ねた男が凄む。
青嵐が何か言おうとしたが、香織は青嵐の袖をつかんで首を振った。
「でも」
「いいの、確かにその方の言う通りだわ。来てくださったのに、立ったまま待たせるというのは申しわけないわ」
香織は、門の傍に椅子をいくつか並べた。
「すぐに準備しますので、こちらで少々お待ちください」
「待つのはいいが退屈だな。姉ちゃん、ちょっと俺たちの相手しなよ」
男たちは下卑た笑いを浮かべて、香織を囲む。
(この人たちは……おそうざい食堂が目的のお客さんじゃない)
男たちから滲む悪意に、香織はたじろぐ。
(どうしよう、こんなときスマホがあれば……!)
前世のクセでついスマホを探してしまうがもちろんあるはずもない。
(うかつだったわ。いざというときの防衛方法を考えておくべきだったわ……!)
何か武器になる物はないか、と
(いけない、火加減を見なくちゃ!)
「すみません、ちょっと鍋の様子を」
男たちを押しのけようとすると、長髪の男が香織の手をつかんだ。
「放してください!」
手をほどこうとするが、男はびくともしないでニヤニヤしている。
「噂は本当だな。すげー美人じゃねえか」
「早く仕事を済ませてちょいと楽しもうぜ」
「ひひひ、こりゃ役得だな」
「やめろ!」
青嵐がつかみかかったが、スキンヘッドの男が青嵐の衣の襟をつかんで勢いよく放り投げる。並べていた椅子や長卓子が大きな音を立てて倒れた。
「青嵐!」
「ガキは引っこんでな。なに、お姉ちゃん、おとなしくしてればすぐ終わる」
長髪の男はいつの間にか、手に鋭い短刀を握っていた。
かざした刃の鋭さに、身動きができなくなる。
「悪く思わねえでくれよ。これも仕事なんでな。やれ」
長髪の男が合図をすると、スキンヘッドの男がずかずかと厨へ入っていった。香織はハッとする。
「な、何をするんですか、やめて!」
香織の叫び声と何かがひっくり返る音、床にけたたましい音を立てて器が壊れる音が重なった。
「やめろっ!!」
青嵐が厨に入ろうとすると、顔に傷のある男が青嵐をつかんで手を振りかぶった。耳に痛い音がして、青嵐の身体が嘘のように地面に転がる。
「うう……」
「青嵐っ!!」
殴られて口の端が切れたらしい。青嵐は、地面ぺっ、と血を吐き出して、うずくまってしまった。その青嵐の身体を、顔に傷の男が足で庭院の隅へ小突いていく。
「やめてくださいっ! 青嵐っ、青嵐!」
動こうとする香織の両手首を、長髪の男が片手で押さえこんだ。
「放して!」
香織は必死で抵抗するが、男はビクともせず、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「ガキの心配より自分の心配はしねえのかい?」
男が耳元で囁く。生ぬるい息がかかって、香織は背筋に寒気が走った。
「なっ、何を……」
「そそるねえ、その顔。仕事が終わったらたっぷり楽しもうな、姉ちゃん」
男は片手に持った香織の両手を目の前に持ってきて、短刀を振りかざす。
「安心しな、一生ってわけじゃねえ。ちょっとの間、料理ができなくなればいいんだとよ」
「……え?」
ぎらりと光る刃が香織の手に近付いてくる。
その意味がわかった瞬間、香織は大きな声で叫んだ。
「やだ……やめて! やだぁっ!!」
男の嗤い声と共に、刃が宙におどった。
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