第百六十五話 試食会の波紋
「くそおおおお!!」
がちゃん、と鋭い音がして、楊氏の屋敷の使用人たちは首をすくめた。
彼らの給金を半年分出しても購えない茶器が割れる音は、いろいろな意味で耳と胸が痛む。
「なぜだっ、なぜ我らが負ける?! 完璧だったはずだっ。推薦した料理人も、その料理も!!」
「お、落ち着かれませ、御主人様」
楊氏の側近、
「かの有名な桃源の料理だぞ?! 建安一の料亭の料理が、あんな、あんな田舎臭い料理に負けるはずなどっ……」
今度は急須をつかみ上げた主人を慌てて昭爺は止めた。これ以上袍が濡らされるのも、茶器が壊れるのも御免だ。
「お待ちくださいっ、御主人様!」
「ええいっ、うるさい止めるな!!」
「おっしゃる通り、陳万福が負けるはずなどございません! 陳万福が料理人として特使へお供するのです!」
「貴様、とうとうボケたか? 我らは負けたのだぞ?!」
「ボケてなどおりませぬ! よくお聞きください。聖厨師は、怪我をするのです」
「なに?」
「おそうざい食堂とやらの営業中に、聖厨師は怪我をする。そして、代わりに御主人様が推薦する陳万福が特使にお供することになる……よろしいですね?」
側近の意図することがわかった楊氏は、つかんだ急須を卓子へ下ろすと、自身もでっぷりとした身体をどっかりと籐椅子に沈める。
「うまくいくのか」
「なに、難しいことではございません。聞けば、おそうざい食堂は聖厨師と少年、その二人しか店にはいない様子。少し暴れて痛めつけてやれば充分効果はあろうかと」
「そうか……ふむ、そうだな。あの小娘が使えないとなれば、当然、小娘と競った陳万福に話が持ちこまれるだろうな」
「その通りでございます」
「よし、急げ」
両手を揉み合わせるように拱手する昭爺を睥睨して、楊氏は新しい茶を持ってこいと騒々しく呼び鈴を鳴らす。
(やっと静まった)
内心胸をなでおろし、新しい茶を持ってきた使用人と入れ違うようにせかせかと退出した。
(楊氏様は短気だからな……明日にでもやらねば、今度は何をされるかわかったものじゃない)
昭爺はすぐに遣いを出す。いつも密かに裏の仕事をさせる荒事師たちは、この時間は繁華街の路地裏で老酒を啜っているはずだ。
♢
「特使の料理人?」
「それに
「ええ、女官たちはそのお話でもちきりでございますよ。なんでも、芭帝国との次の会談にお供して、料理を供する御役目なのだとか」
「ふうん……」
佳蓮は平静を装ったつもりだが、内心誇らしくてたまらず、によによが止まらない。
(やっぱりあたくしの目に狂いはなかったのですわ! 香織は聖厨師と呼ばれるにふさわしい料理の腕ですもの!!)
そんな人物と一緒に料理をしたかと思うと、今さらながら心がときめく。
「……ん? でも、待って。特使のお供ということは、李宰相と耀藍様にお供するってことですわよね? ということは、試食会では耀藍様も香織の料理を召し上がって選定したってことですわよね……?」
「か、佳蓮様、落ち着いてくださいませっ、料理の試食ですし、じゅうぶんに適切な距離をもって接していたものと思われますわ! まちがってもまちがいが起こるはずなどございませんから!」
「乙ったら、ちがいますわ」
佳蓮は苦笑した。
「あたくし、わかったのです」
「へ?」
「あたくし、香織と話して、一緒に料理をして、今では耀藍様がなぜ香織に惹かれていらっしゃるのか、わかったわ。耀藍様が、どうあってもあたくしを妹同様にしか思っていないこともね」
「佳蓮様……」
「あたくしが気になるのは、耀藍様がなさっている心配のことよ」
「心配、ですか? 耀藍様が何を御心配なさっているのです?」
「乙ったら、よく考えて。試食会、料理人の選定、それは宮廷を二分する楊氏と周氏の対決でもありますのよ!」
「ええ、まあ」
「負けた相手はあの楊氏ですわ。これまでも数多の政敵を蹴落としてのし上がってきた策謀家ですのよ! 負けたままにしておくはずない……と耀藍様はご心配なさっていると思いますの」
「さすがは佳蓮様! そういうことでございますか!」
「とはいえ、料理人が選定された今、耀藍様は特使の準備でお忙しいはず」
「ええ、そうでございますとも!」
「ですから、あたくしが行きますわ!」
「そうでございますとも……って、え?」
乙は目をしばたかせる。
「佳蓮様、行く、とは?」
「決まっていますわ。おそうざい食堂に困ったことが起こらないか、見張りに行くのですわ!」
「し、しかし佳蓮様、そんな急に」
「乙、香織に何かあってからでは遅いのよ?! 早く手配をなさい!」
「は、はいっ、ただいま!」
慌ただしく出ていった乙を見送って、佳蓮は呟く。
「
♢
「っくしゅん!」
耀藍は鼻を拭いた。
宰相の執務室。鴻樹と耀藍は試食会の結果を受けて、荷を作らせたり書類を確認したり、さっそく会談の準備に取り掛かっている最中だった。
「大丈夫ですか、耀藍殿。
「いや、大丈夫だ。それより鴻樹、試食会勝者の香……
「ああ、やはりその心配ですか。ええ、楊氏や陳万福とは帰り道が一緒にならないように時間差で退出してもらって、見送りの兵を陳万福殿と香織殿、双方に付けましたけど」
「そうか……って、楊氏は?」
「楊氏? 腐っても大貴族、二大派閥の長ですよ? まさか、この期に及んで何かするとは思えませんが……」
「いやっ、あのオッサンは粘着質なことで有名なんだ。影で香……聖厨師に嫌がらせの一つもするかもしれん」
「そうかもしれませんが……今、予算節約のために王城の兵士の稼働率も下げているんですよ。だから、楊氏の見張りに衛兵を裂くのは難しいかと」
「む、むう……」
「では、早く次の会談の準備を終えましょう。積み荷が終われば衛兵を楊氏の見張りに裂けますから」
「わかった」
(あの首飾りがあれば、滅多なことにはならないと思うが……)
妙にざわつく胸を押さえ、耀藍は懸命に書類に目を通していった。
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