第百六十三話 試食会③
整えた膳を一つ一つ確認し終えた
「これで準備は万端ね」
やれるだけのことはやった。悔いはない。心は静かだ。
「次! おそうざい食堂料理人、香織!」
呼ばれて、香織は一人分の膳を捧げ持って、審査席へ進む。
演劇広場に設けられた二つの厨の前には一列に審査席が設けられ、王を中心にして左右に宰相の
まずは王の御前に、香織は膳を運んだ。
配膳し、下がろうとした香織は思わず顔を上げる。
不敬かと思ったが、強い視線を感じたのだ。
(ずいぶんお若い方だわ)
今の外見の香織とそう変わらないだろう。中性的に整った顔立ちだからか、王というより王子という雰囲気だ。
その王が、目を細めてじっと香織を見ている。心臓がどきり、と大きく動いた。
(な、なんだろう、何か粗相をしてしまったかしら……)
嫌な汗が背中を伝うが、王の表情は責めているようには見えない。むしろ、そこには親愛の情があるようにも感じる。
香織がどぎまぎしていると、王がふっと笑った。
「ありがとう。食べるのが楽しみだ」
香織はあわてて深々と頭を下げ、さがった。
(よ、よかった。とりあえず、悪く思われているようではなかったわ)
見ていたのは香織ではなく供した料理だったのだろう、と思い直して次々に膳を運んでいく。
(汁物が冷める前に、食べてくれる審査員の方すべてに配膳をしたい……!)
その想いが、作業の手際にいっそう切れの良さを加える。
まるで楽器を奏でるように、香織は一滴もこぼすことなく、手早く、美しく料理を器によそい、配膳していく。
だから、耀藍の前に膳を運ぶときもごく自然に足を運べた。
(よかった……)
本当は不安だったのだ。
耀藍の前で涙がこぼれたり、ふるえたりしたらどうしよう、と。
配膳が終わり、下がろうとしたとき、視線を感じた。
しかし香織は王のときのように顔を上げなかった。そのまま下がり、次の配膳へと向かう。
もしも、もしも耀藍と目が合ってしまったら。
張りつめている何かが切れてしまいそうな気がして、怖かったのだ。
♢
耀藍も他の人々と同様、香織が鮮やかに器に盛りつけ、配膳していくのをじっと見ていた。
今度は、耀藍の目の前に香織が進んでくる。
その懐かしさ、愛おしさに狂おしいほどの衝動がこみ上げ、耀藍は思わず目を閉じた。
静かに膳を置く香織の気配が、立ち去ろうとしている。
(香織っ……!)
思わず、耀藍は目を開けて香織を見た。
小さな背中が遠ざかっていくのを、耀藍は暴れそうな衝動を押さえつつ見送るしかない。
そして、思う。
(香織の美しさは、やはり本物だ)
容姿だけではない、内面からにじみ出る心の優しさ。料理の配膳にもそれが現れる。だから人々を魅了してやまない。
いつの間にか、その場の視線が香織の動作に注がれていた。
審査員はもちろん、衛兵や女官に至るまで、すべての人々が香織の配膳の美しさに見惚れていた。
「どうぞお召し上がりください」
香織の声に、一斉に箸が上がる。
耀藍も箸を取り、そしてまずは汁物に手を付けた。
(これはっ……)
刹那、懐かしい記憶が蘇る。
あれはまだ、香織がおそうざい食堂を始めて間もない頃。
近所の人たちが持ってきた大根と干し肉。その奇妙な取り合わせを、香織はあっという間に汁物に仕立てたのだ。
干し肉の香辛料の香りの中でほろり、じゅわり、と溶けていく大根。
そして、干し肉の滋味と昆布出汁の旨味が絶妙な汁。
(あの時と同じ味がする。そして……)
耀藍は、卵焼きに手を伸ばす。
それは予想通り、甘い卵焼きだった。
あの時、明梓の子どもたちと一緒に、この甘い卵焼きをジャンケンで奪い合った。
負けて悔しがる耀藍に、香織は笑ってまた作ってくれると約束した。
そして約束通り、毎日のように作ってくれた、その大好きな味。
(それからこれは、香織がよく作ってくれたおひたしだ)
玉ねぎだけで作ったおひたし。これもよく食卓にのぼり、箸休めにちょうどいい味つけだった。ほどよい酸味で口を整え、耀藍は唐揚げを取る。
(やはり香織の唐揚げは美味い……)
揚げてから時間が経っているので、もちろん冷めている。
おそらく、それを計算したうえで、濃い目に味を付けているのだろう。
そこまで考えたとき、耀藍はハッと料理全体に目を瞠った。
(もしかして……そうか! そういうことか!)
交渉会談での料理。場所は野外。もちろんただの会食ではないから、時間もかかる。料理はただ楽しむだけのものではなく、その食材が会談の材料となり、新たな流通経路や食材開拓につながる。
そのための食膳。
そのために選び抜かれて作られた料理。
(包子は小麦流通の早期安定を促す材料になりうるし、おそらく中の具材も香織のことだ、一工夫あるのだろう。あのおにぎりに付いた色のある塩は、マニ族の塩。これは会談場所を提供しているマニ族への心象を良くするし、マニ族の塩の道を広げるきっかけになり得る)
他に、耀藍が見たことのない、おそらくジャガイモを薄く揚げた物と乳白色の物体が添えられた蒸し野菜があったが、それらも香織が何か目的があって作った物に違いない。
(すべてが、料理の美味しさだけではなく、会談が行われる場所、目的に沿って考え抜かれている)
香織の料理を懐かしむ耀藍の顔は、特使として料理を精査する顔に変わっていた。
♢
(すべてが計算されている)
鴻樹は包子を割って一口食べ、うなった。
(中でもこの包子は最たる物だな。小麦流通安定は芭帝国の火急課題の一つだ。包子は芭帝国では日常食だから、以前と同じように毎日食卓に上げたいはずだからな。そして、この中の具だ)
赤い、トマト味の具。どことなく、この前おそうざい食堂で食べた「みねすとろーね」という赤い汁物に味が似ている。
「みねすとろーね」より甘味があり、玉ねぎと一緒に煮込まれたひき肉や肉の細切れが包子の皮によく合っている。
そして、中心部から湯気とともに糸を引く乾酪。
これには鴻樹は思わず声を上げた。周囲も同じ反応だ。
「こんな包子、見たことがない!」
呉陽国では包子は祝いの席で食べる物。赤は祝いの色でもあり、これは呉陽国でも喜ばれるだろう。
そして鴻樹が楽しみにしていたのは――。
「美味い!」
おそうざい食堂へ行ったとき、途中で売り切れてしまって食べられなかった幻の調味料。
乳白色のそれは「マヨネーズ」というらしい。見たことも聞いたこともないこの調味料、会談の緊張を解く材料になりそうだ。
(そしておそらく、これらの料理はすべて、手際や手順、会談の目的や野外で作ることも想定している)
もちろん王の特使なので、人も資金も使おうと思えば湯水のように使える。大仰な器材も傷みやすい食材も、遠くまで運ぶことも可能だろう。王の特使の料理となれば、威信にかけてそれくらいのことはむしろやってもいい。
そしてそれが陳万福の料理だった。
しかし、今回は少し状況が特殊だ。
王の特使とはいえ、もてなすのが目的ではなく、あくまで会談を有利に進める材料となる必要がある。しかも、会談場所は山奥。調理場所は野外。
(聖厨師の料理は、どれも冷めても美味しい。これならば……)
鴻樹は厨の隅にちんまり控える愛らしい少女に感服しつつ、残りの料理に次々と箸を伸ばした。
♢
「なるほどのう」
食べ終えた紅蘭は箸を置き、静かに息をつく。
「蔡殿、何か?」
隣の役人が怪訝そうに聞いた。
「いや、
紅蘭は見事に
蔡紅蘭が微笑むことなど見たことのない役人は驚きに硬直する。
そんな
「完敗じゃ。まさか我が全部食べてしまうとは思わなんだ」
次々と箸が伸び、気が付けば器が空になっていた。
「あの食にうるさい耀藍の心を捉えた料理がどれほどかと思うておったが、まさかこれほどとはな」
食べる相手のこと。食膳の目的。食材、調理の手順。
すべての要素を考え計算し尽くした料理。
「いや、これは計算ではないのやもしれぬな」
ここまで完璧にできる料理の奇才なのか。
それとも天性の料理人なのか。
「いずれにせよ、香織は本物の料理人じゃ。我が弟ながら見る目は確かなのは褒めてやりたいが……運命とは
紅蘭が切ない吐息を漏らしたとき、銅鑼が短く打たれた。
「これより審査に入る!」
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