第百六十二話 試食会②
銅鑼の響きが空中に溶けると同時に、貴賓席の扉が開いて数人の人物が入ってきた。
先頭に入って来たのは黒い官服姿の若い男。
(あれは、先日おそうざい食堂に来てくれた男の人だ!)
あのとき、たくさん食べて
そんなことを考えていた香織は、次の瞬間、呼吸を忘れた。
(
まるで瑠璃をそのまま溶かしたような艶やかな青い長衣に水晶の杖を持った長身。日の光を映す銀色の髪は少し短く、またきちんと結われていたが、耀藍にまちがいなかった。
耀藍の青い双眸がこちらに向いた気がしたが、その視線は香織の上をただ通過した。周囲の景色と同じように。
たったそれだけのことに、香織は胸がひどく締め付けられた。
(きっと、耀藍様はわたしのことなどもう覚えてはいない……)
高い場所から無表情に真っすぐ前を向く耀藍はまるで別人に見える。そのことに、香織の胸は悲しみに冷えた。
(……でも、当たり前だわ。耀藍様は王の術師になってお忙しい身なのだから)
今日の試食会とて、耀藍にとっては次の会談のための準備なのだ。
しかも耀藍にはすでに、
すでに餞を贈って二人を祝福したつもりだったのに、心が揺れる自分が情けなくなる。
(……しっかりするのよわたし。何のためにここにきたの?)
料理で世界平和に貢献するために。
(落ちこんでいる場合じゃない! わたしも気を引き締めなくちゃ!)
勝負に勝って、耀藍が少しでも円滑に会談交渉を進められる力となるために。
(耀藍様にとってもう特別な存在でなくとも、料理人としてのわたしを見ていてほしい!)
続いて、貴賓席より一段下の両側からそれぞれ、楊氏の陣営と周氏の陣営が入場してきた。
楊氏陣営の先頭には恰幅のいい壮年の長髯の男(楊氏の長だろう)に、それにそっくりな若者(おそらく楊氏の息子)、いかにも役人風の男が三人。
周氏陣営の先頭は艶のある笑みを湛えた美形の壮年・
最後に純白と金の袍をまとった王が入場し王の座に着席すると、演劇場にいるすべての人々が平伏した。
香織もあわてて、それに倣う。
しん、と静まり返った演劇場に、よく通る声が響いた。
「余は、無駄話は好きではない」
若い王の一言に、場にいる数少ない人々はあっけに取られた。楊氏陣営の者たちは、目配せをして扇子の影で苦笑している。
そんな様子を一瞥し、王はつかつかと銅鑼の前まで歩いていって、慌てる臣下の手から銅鑼打ち棒を奪って大きく一回打ち鳴らした。
「どちらの料理が特使にふさわしいか、いざ勝負せよ!」
いきなりの銅鑼の音にハッとした香織の目の端に、あわただしく動き出した陳万福の助手たちが映る。
「も、もう始まったんだわ!」
緊張で頭が真っ白になりながらも、香織は竈に走った。
「落ち着いて……だいじょうぶ。いつも通りにやれば大丈夫。まずは火をいれなくちゃ」
火を熾し、水場で野菜を洗っているうちに、手の震えもいつしかおさまってきた。
♢
「ずいぶんと対照的な対決者だねえ」
「陳万福は建安一の料亭と名高い桃源の店主にして料理人。五人も助手がいて、それぞれに作業をやらせている」
陳万福の厨房では、屈強な五人の男たちがそれぞれの持ち場で与えられた仕事を手際よくこなしていた。ある者は野菜を見事に刻み、ある者は燃え盛る竈の火の前で強い火力を保つために竹筒で息を送り続け、ある者は巨大な寸胴の前で何かを煮込み、ある者は一抱えもある魚を捌き、ある者は素早い手つきでまるで芸術品のような餃子をずらりと作っている。
そして陳万福は、竈の一か所で動かず、彼らをじっと監視している。
時折、竈で何かを炒めたり、鍋の味見をすることはあっても、助手たちのように動き回らない。腕を組んで岩のようにじっと立っている。
「さすがの貫禄ってところかな。入念な打ち合わせと日頃から使っている助手たちへの信頼があるからこそできる技だ」
そして。
「聖厨師・香織は大衆食堂としては珍しい、連日行列の絶えないおそうざい食堂の店主にして料理人。たった一人で、まるで家庭の主婦のように、すべての調理をこなしている」
それはまるで、舞いを見ているようだった。
竈の火を見て鍋をのぞき調味料を入れたら、すぐさま水場から野菜を取ってきて調理台で刻み、再び竈に戻って野菜を鍋に投入、それから道具をいくつか取って調理台へ再び向かい手早く何かをかきまぜながら竈へ行って大蒸籠の火加減をみる。
その流れるような一連の動作は、まるで舞姫の舞いを見ているようだ。
「美しい。じつに美しいね……」
♢
隣で何やら亮賢がぶつぶつ言って不敵に笑んでいるが、耀藍はまったく耳にも目にも入っていなかった。
香織の姿を初めて俯瞰して見た耀藍は、その姿に心を震わせていたのだ。
(香織……)
くるくるとよく動き、働く姿はいつも通りの香織で、耀藍はホッとするような懐かしいようなじんわりと温かい気持ちになっていた。
同時に、楊氏陣営も周氏陣営も、ひとりで作業をこなす香織に目を瞠っている様子を見て、誇らしくもあった。
(そう、香織はいつも、いつだって、厨の中のことはたったひとりでこなしてきた)
まるで家庭の主婦のように。
しかしそれは当たり前のようでいて、決して簡単なことではないと耀藍は知っていた。香織の手伝いを少しでもしたことのある者なら知っている。小英も、青嵐もきっと。
(だから香織の作る料理は美味しい)
食材にも、作る相手にも、そして作る自分にも。ぜんぶに理解と思いやりがあって、相手のその日の調子を汲み取って調理する。塩加減、味の濃さ、温かさ冷たさ。同じ料理でも一定に決められたものではなく、状況に合わせて変化する。
それが料理の醍醐味。
(その醍醐味を食べてくれる人すべてへ与えてくれる。それが香織の料理なのだ)
だから美味しい。いつも食べたくなる。懐かしくなる。
ふと耀藍の脳裏に、母の姿が思い浮かぶ。貴族の女性ゆえ厨の中を動き回ってはいなかったが、いつも母は厨へ行っては野菜や肉などの状態を確認し、鍋の中を味見していた。人任せにしていなかった。厨に入っているのが呼び寄せた一流料理人であっても。その母なりのこだわり。
(料理人がやっていたこと、母がやっていたこと、香織はそのすべてをひとりでこなしている……)
料理とは、日々の糧を作ること。
それは決して華やかではない、むしろ地味な作業。
生きている限り繰り返される、人の営み。
それを日々変わらず、丁寧に続ける香織に、耀藍は改めて尊敬と愛しさを感じる。
(それはきっと、世の家庭の主婦全員に贈るべき賛辞なのかもしれなん……)
くるくると働く愛らしい姿を、耀藍はじっと目で追い続けた。
♢
いよいよ試食。
「
宰相の李鴻樹が、長い竹の棒がたくさん入った大きな筒を持ってきた。
「合図をしたら、竹の棒をお二人同時に引き抜いてください。先か後か、同じならば再度引きます」
そのとき、楊氏が陳万福へ密かに目配せする。
陳万福はわずかに頷く。
(ふふふ、楊様に言われた印のある籤を引けばよいのだ)
籤に細工をしておくと、事前に知らされていた。
「引いてください!」
陳万福と香織、同時に籤を引き抜くと、陳万福が先、香織が後、と出た。
(はっはっは、料理はできたて温かさが命! 先に供するのがいいに決まっとる! 料理は完璧だ、これでわしの勝ちは決まりだ!)
溢れそうな高笑いを必死にとじこめ、陳万福は手づから審査員たちに料理を配膳していく。
ところが恰幅いい身体のせいで、思うように配膳が進まずに内心イライラした。
(くそっ、配膳など助手や給仕の仕事であろうに)
今や建安一と名高い料亭で、陳万福が配膳をすることはない。
(まあいい。せかせかするより料理が美味そうに見えるだろう)
遅い動作を優雅に見せるように勿体をつけて、陳万福はなんとか配膳を終えた。
目の前に配膳された料理に、審査員たちはどよめく。
「これは素晴らしい」
「さすがは一流料亭の料理だ」
「この飾り切りの見事なこと」
「盛り付けもきれいだ」
「彩りの美しさも完璧だ」
次々と飛び出す惜しみない賛辞に、陳万福は慇懃な笑みを浮かべて頭を下げる。
「どうぞお召し上がりくださいませ」
肉の煮物や魚の焼き物、羹に炒飯、まるで料亭のフルコースのような料理に審査員たちは舌鼓を打った。
「うん、美味い! この魚の焼き物は絶品だねえ」
敵方である周明高まで絶賛している。
「父上、相手方をそんなに褒めそやすなんて」
隣で誠和がささやいた。
「だって美味いものは美味いじゃないか」
「それはそうですけど……」
周氏陣営の子役人たちも気まずそうに、しかし美味そうに食べている。
蔡紅蘭はその様子を見つつ、均等にどの料理にも箸を伸ばした。
(たしかに美味じゃ。だが……)
紅蘭は、その艶やかな双眸の端で次に控える香織をとらえる。
香織は、こちらの状況をまったく見ていなかった。
というより、自分が供する料理の最終確認に没頭していた。
(もし順番が逆だったら、陳万福は食い入るように相手の状況を見ていたであろうな……)
ほつれた髪、額に光る汗。作業で赤くなった手。化粧気のまるでない顔。顔立ちは整っているが、どこにでもいる庶民の娘。
(じゃが、今の香織はこの我よりもずっと美しい)
舌をすり抜けていく洗練された味よりも、紅蘭は自分より美しい者の作る料理が待ち遠しかった。
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