第百六十一話 試食会➀
ゆっくりと昇ってくる朝日が通りを明るくしつつある。
すがすがしい空気を思いきり吸いこんで、
「それではいってきます」
「うむ、気を付けてな」
「ぜったい香織が勝つって! 自信持てよ!」
「慣れない厨房は使いにくいだろう。怪我には注意だ」
これまでのことが走馬灯のように頭を巡る。
トラックに轢かれてこの世界に転生したこと。若い美少女に転生できて、周囲の人たちは皆親切で、前世のボロボロだった心が癒されていった。
そして、おそうざい食堂を始めて。香織が作ったなんてことのない『いつもの料理』を皆が喜んでくれて。これも前世では到底叶うはずもなかった夢を叶えられた。
そして今、料理で世界平和を叶えるため、王城へ向かっている。
(記憶が走馬灯って死亡フラグ……いやいやそんなことはないって! それに一度死んでるし。怖くなんかない!)
そう、震えているのは怖いからではなく、緊張だとわかっているのだが。
「……やっぱり震えが止まらないーー」
とうとう王城の門まで来たが、いっこうに震えはおさまらない。
「おい! そこの娘!」
「は、はははひっ?!」
その上いきなり怒鳴られて香織は心臓が口から飛び出しそうになった。
「こんな早朝に何をしている! 物売りの類ならば即刻立ち去れ!!」
「いえ、あの……わたし、今日、王城で行われる試食会に来たのですが」
「なんだと?! なぜ貴様がそれを知っている! 宮廷会議の極秘事項だぞ!!」
たちまち香織は衛兵たちに囲まれた。
「え……ええ?!」
「何者だ貴様! 頭巾を取れ! 名を名乗れ!!」
香織が目を白黒させていると、後ろから小気味よい馬車の音と規則正しい蹄の音が近付いてくる。
「はっ、あの紋章は……楊氏様の馬車だぞ!」
衛兵たちは一斉に敬礼する。馬車の中から、ふくよかな初老の男が顔を出した。
「朝早くから御苦労様。私は料理人の陳万福という者だ。楊氏様よりご推薦を受けて、今日の試食会に参じたのだが」
「ではあなたが……建安一の高級料亭・桃源の店主様!」
兵たちは憧れの眼差しで陳万福を見上げた。
「どうぞお通りください!!」
兵たちは道を開け、馬車は再び規則正しい優雅な音をたてて王城へ入っていった。
「うらやましいな。試食会では、あの陳万福の料理が食べれられるんだもんな」
「バカおまえ、料理人を選ぶのも料理人自身も責任重大だぞ? 選んだ料理人が次の芭帝国との会談の鍵になるって噂じゃないか。陳万福だって今頃馬車の中で冷や汗かいてるさ」
「対戦相手の聖厨師はうら若き乙女だって話だぞ。かわいそうになあ、今頃きっと、緊張で震えちゃってるよ」
「噂じゃ、すごい美少女らしいぞ。震えてたら、俺が抱きしめて温めるよ、とか言ってみたいぜ」
ドッと兵士たちが笑う中、おずおずとした声が言った。
「あの、抱きしめていただかなくても大丈夫なので、門を通してもらえるでしょうか?」
え、と兵士全員が振り向くと、囲んでいた娘がいつの間にか頭巾を取っていた。
色素の薄い艶やかな髪が朝陽で輝き、すみれ色の瞳が決まり悪そうに微笑む姿に誰もが心臓を撃ち抜かれた。
(か、かわいい……っ!)
美少女は丁寧にお辞儀をした。
「周氏様のご推薦を受けて参じました、料理人の香織です。御召しにより、参上しました」
♢
まず香織が驚いたのは、すべてがピカピカの新品であることだった。
「ふわああ! すごい! 鍋もおたまも! このまな板も、全部新品なの?!」
ここは会場となる野外の演劇場。そこに設置された香織専用の厨。
普段は演劇や演舞が催される舞台広場はきっちり二つに分けられ、観覧席から見えるように同じ構造の厨房が二つ作られていた。
その厨房、器具から竈から調理台に至るまですべてが真新しい。今日一日のためとは思えないほど精巧に作られた水場も、この世界には珍しい立水栓がちゃんと付けられている。
この日のためにすべてが準備されたことがわかる仕様となっていた。
「まるで料理番組みたいだわ」
前世の昔、料理系の番組はけっこうチェックしていた。料理対決、料理創作番組、どの番組でもスポンサーの宣伝なのか器材は真新しく、キッチンはシンクからガス台に至るまでピカピカで、あんな場所で料理できたらいいな、と憧れたものだ。
「また一つ、願いが叶っちゃった」
そう思うと緊張が少しはラクになる。
「いいかげん震えがおさまってくれないと包丁を扱えなくなっちゃうわ……」
香織はけっこう焦っていた。
その焦りをやり過ごすため、器具や竈、薪の量などを最終チェックしていく。真新しい器具の中、持参した「これだけは外せない道具」を要所要所に配置していくが、どうにもみすぼらしい。
「王様の前で失礼かしら。でも、どうしても使いたい道具だしなあ」と思案していた香織は、ふと顔を上げた。
少し離れた場所に、まったく同じように設置された厨で、陳万福が数人の男たちに指示を出している声がする。どうやら、助手のようだ。
「そっか、高級料亭の料理人さんだもの、助手もいるよね」
陳万福は何やら助手の一人を怒鳴りつけていた。
その姿を見て香織はハッとした。
「きっと、陳さんも緊張してるんだわ」
前世、緊張するとイライラして、つい子どもたちを怒鳴りつけたこともあったっけ。そのことを思い出すな。
香織はふと思い立って昆布の佃煮を小皿に載せると、陳万福の厨房へ向かった。
助手の一人が気付いて、ぎょっとした顔をする。
「
一人が叫ぶと、助手たちはずらりと盾のようになって厨の前に並んだ。
「敵が何の用だ!」
香織は面食らう。
「敵だなんて、そんな」
「ここから先は一歩も通さんぞ!」
「対決が始まる前に探りを入れようとするとは、卑怯な小娘だ!」
「ちがいます、わたしはただ……」
香織は、大事に持っていた小皿と箸を握りしめる。
「陳さんと一緒に、その……昆布で白湯を飲んで、休憩をしようかと思いまして」
助手たちはぽかん、としたあと、げらげらと笑った。
「身の程知らずが! 陳老師がおまえのような小娘と休憩するはずなかろう!」
「ちょっとばかり見目がよいからと言って調子に乗るなよ! 料理の世界じゃ容姿の良し悪しは関係ないのだ!」
「そんなあやしげな物、さては陳老師に毒を盛るつもりか?!」
助手たちの目つきが鋭くなる。
「ち、ちがいます! お茶うけにと思って持ってきただけで――」
そのとき、助手たちの背後から陳万福が現れた。
「何を騒いでいるのかと思えば、これはこれは、貴女が噂の聖厨師さんですか」
「は、はい、香織と申します。よろしくお願いします」
香織は深く頭を下げた。
「せっかくのお誘いだが、これから真剣勝負のとき。料理人は料理の前に、食材以外の物を口にはせぬものですよ」
やんわりと言われて香織はハッとする。
「も、申しわけありません!」
「いえ、貴女のようなお若い御方では仕方ありません」
(まったく、本当にただの素人の小娘じゃないか。容姿の良いだけの町娘風情がワシと料理を張り合おうなど、片腹痛いわ)
陳万福は内心で嘲笑ったが、そんな素振りは毛ほども見せず、好々爺然とした笑みを浮かべる。
「せっかくですから、お持ちいただいた物はありがたく頂戴しましょう」
(あとでもちろん捨てるがな)
「お、おそれいります……」
香織は真っ赤になりながら陳万福に小皿を渡した。
「これは何ですか?」
(よもや本当に毒か?)
「こ、昆布の佃煮です」
「ツクダニ……はて。興味深い。勝負が終わったらいただきましょう」
(変わった料理を作る娘だという噂は、本当なのかもしれんな)
陳万福は苦笑を隠すため、軽く会釈をすると踵を返した。
(他愛ない。この勝負、ワシの勝ちだ)
助手たちの嘲笑の中、香織はとぼとぼと自分の厨房に戻ってきた。
♢
「むこうは完璧なプロなんだわ……」
料理の前は、食材以外口にしない。考えてみれば当たり前のことかもしれない。
「対して、わたしはただの主婦だものね……」
前世でいえば、ミシュラン三ツ星レストランのシェフと対決するようなものだ。まったく勝ち目などない。
でも勝ちたいのだ。その気持ちは変わらない。しかし。
「はあああどうしよう! もう無理かもしれない……」
陳万福と話したことで少しは収まっていた緊張がまた盛り返し、心臓が押しつぶされそうだ。
震えも止まらない。
そのときだった。
「王の御到着——」
虚空を揺るがす銅鑼の音と共に、朗々とした声が演劇場に響いた。
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