第百六十話 奇跡の晩餐


「どうなっているのだ……!」

 私邸に戻った耀藍ようらんは頭を抱えた。


「少なくとも、オレが香織と一緒にいる間に男の影はなかったはず!」

 毎日、ずっと一緒にいたのだ。まちがいない。

「ということはオレと出会う前から知っている男か!」


 香織こうしょくは、ある日突然道端で蔡家の馬車とぶつかったところを華老師かせんせいに保護された。

 香織自身も記憶を失っており、周囲に知人もいなかったことから、応急処置をした華老師がそのまま自宅へ引き取ったのだ。


「あの愛らしさ、美しさ、そして料理の上手さだ! 男が言い寄ってこないはずはないがしかし! なんかザワつくぞ! 故郷で近所の幼馴染とか? 小さい頃憧れていた学舎の教師とか? くううっ許せんっ、オレが知らない香織を知っているなどとは!……なんてオレが言っても仕方のないのことだがな……」


 力んでいた肩をがっくりと落とす。

 すでに入城してしまった耀藍に、香織の男性関係をどうこう言う筋合いはない。

 それに。


「香織は記憶を取り戻しつつある……」

 以前、華老師の部屋で香織が話しているところを偶然聞いてしまった。

 香織は芭帝国後宮から逃げてきたのだと。


「相当な身分の妃だったのかもしれん」

 芭帝国の内乱が収束しつつある――その立役者に耀藍も含まれているのだが――今、香織が芭帝国後宮へ連れ戻されようとしている可能性はじゅうぶん有りうる。


「芭帝国の後宮は数千人単位の大所帯、しかも妃嬪は星の数だという。まあ香織はそんな中でもひときわ輝くだろうが、それにしても連れ戻しにくるとはな」


 香織がかなり執着されている様子がうかがえる。


「オレがどうこうできる問題ではない。だがいずれにせよ、試食会が終わったら香織はどこぞの男の元へ行ってしまうということじゃないか……!!」

 どうにもできない切なさに胸をかきむしっていると、女官がやってきた。


「耀藍様。佳蓮様がお見えです」

「佳蓮が? もう夜だ。いつもどおり通すな」


 佳蓮が耀藍にかなりな好意をもっていることは、鈍感な耀藍でもこの頃やっと気付いた。

 だから夜は私邸に入れないようにしているのだが――。


「耀藍様!」

「うお?!」


 佳蓮はいつの間にか耀藍の後ろに立っていた。

 いつものように後ろから抱きついてこなかったのは、佳蓮が手に平包ひらつつみを捧げ持っているからだろう。


「夜は来るなと言っているだろうっ! 早く自分の宮へ戻って夕餉を――」

「耀藍様とこれを食べようと思って持ってきました!」


 佳蓮は平包を卓子の上に置いて、女官に茶を持ってくるように命じた。


「……な、なんだ?これは?」

「聖厨師様と作ったんです」

「なっ」

「いつもより品数が少ないからと、聖厨師様が『おにぎり』なる物をたくさんお持たせくださったのですが」


 そう言って佳蓮は平包と解き、四角い木箱の蓋を開けた。


「……これは……」


 きっと「甘め」の卵焼き。小松菜の和え物。昆布の佃煮が入ったおにぎり。


 耀藍が大好きだった、香織の作る食卓では基本の料理ばかり。


「こちらの卵焼きをご覧ください。卵にはだいぶ苦戦したのですが卵焼きを作るのは楽しくて――」

「美味い!!」

 佳蓮がもじもじと話している途中で耀藍はもうおにぎりに手を伸ばしていた。


(香織が作ってくれた物が目の前にあるのに我慢などできるはずがない!)


「まああ! 耀藍様ったらお行儀の悪い! あたくしも食べたいのを我慢しておりますのに!」

「我慢などする必要はない」


(『お腹が空いたとき、温かい時が食べ時ですよ』)

 香織の声が、耳の奥で優しくよみがえる。

 塩加減。かための炊き加減の白米。昆布の佃煮

 すべてが香織を思い出させて。



(香織に会いたい……!)



 お腹が空いていて、おにぎりを食べて。それなのに胸が苦しくて、おにぎりを手にしたままもっと食べたいのに食べ進められない。



「あたくし料理をしたのは初めてでしたわ。でも、聖厨師様が丁寧に教えてくださって……って耀藍様?! どうなさったのです?!」


 食べかけのおにぎりを握ったまま耀藍はぽろぽろと涙をこぼしていた。


「のどにつかえたのですか?! 乙、すぐに水をっ」

「……よい。案ずるな」

 あわてて席を立った佳蓮を耀藍は静かに止めた。

「驚かせてすまぬ、佳蓮。なんでもないのだ。そなたも食べろ。腹が減っているのだろう?」

「ですが」

「よいのだ。少し……疲れているだけだ」


 そう。疲れている。

 自分の役目を演じることに。


(しかし、オレはもう術師だ)

 後戻りはできない。わかっている。


「それと……噂の聖厨師殿の作った物を食べて、ちょっと感動したのだ」

 佳蓮を安心させるために耀藍が少し笑むと、佳蓮は「ですわよね?!」と頷く。

「ほんとうに美味しいのです、聖厨師様の作る物は。簡単な材料しか使ってないのに、なんていうのでしょう、沁みる、とでも言いましょうか。」

「――ああ。それが香織の魔法なんだ……」

「え?」

「いや、なんでもない」


 耀藍はあわてて、おにぎりの続きを頬張る。


「聖厨師様が言ったのです。耀藍様と楽しい食卓を囲んでください、と。ささやかな結婚祝いだと。ですから御一緒にいただけて、よかったですわ。いつもは夜は邪険に追い返されてしまいますのに」

 佳蓮は軽く耀藍を睨み、そして微笑んだ。

「すべて聖厨師様の……香織のおかげですわ」


 いつの間にか佳蓮が香織と接点を持っていることが突然気になったが、もうどうでもよかった。

 今は、香織の作った『いつものご飯』が再び食べられるという奇跡のようなこの時間を大切にしたかった。


 明日の試食会では、香織と顔を合わせても王の側近として接しなくてはならない。

 溢れそうになる自分を必死に抑えなくてはならない。

 また料理人を選定する者として公正を期さなくてはならない。私情で香織に軍配を上げてはならないのだ。



 だから今は、今だけは、久しぶりの香織のご飯を味わおう。

 耀藍は涙をぬぐって無心におにぎりを頬ばった。




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