第百五十九話 試食会前夜


「ただいま……」


 扉を開けると、居間から小英しょうえい青嵐せいらんが顔を出した。


香織こうしょく! いいのか? さっき、吉兆楼の人が伝言に来て、今日は忙しいから吉兆楼に泊まるって聞いたんだ」


冷葉れいはさんが来たんだ)

 洸燕こうえんの話は本当だった。本当に、あの二人は兄妹で、芭帝国の間諜で、香織を――いや、麗月リーユエを芭帝国から迎えにきたのだ。


 前世でいえばスパイ映画のような展開。それがこの異世界での現実。

 香織は無理に笑顔を作った。


「う、うん、やっぱり帰っていいて言われて」

「そっか、そうだよな。明日は試食会だもんな」

「準備あるんだろう? 手伝うから」


 小英と青嵐が土間に下りてくる。

 いつもなら遠慮して二人を押しとどめる香織だが、今夜は違っていた。


(人に頼ることも、とっても大切)

 人に頼るということは、何かを人と一緒にすること。時間を共有すること。

 それは甘えではなく、日々の大切なコミュニケーションだと今は心から思う。

(それに……料理人の件が終わったら、わたしは芭帝国へ行かなくてはならない)

 最悪、明日の試食会で負ければ、数日後には芭帝国へ出発することになるだろう。



 そうすれば、皆とお別れだ。

 今、一緒にいられる時間を惜しみたかった。



「今日は香織が素直で、なんかいいな!」

「ああ。これからもこうやって気軽に頼ってくれたらいい」

 二人は香織の指示でテキパキと動きながら、上機嫌だ。

「ありがとう……これからはそうするわ」

――そうすればよかった。もっと早く。

 後悔先に立たず、という諺がこんなにも胸に迫ってきたのは、43年の前世でも無かったことだった。


「おお、香織。やはり戻ったのか」

 しばらくすると、お風呂から上がった華老師かせんせいも土間を覗いた。

「華老師。御心配おかけしてすみません」

「いやいや、なにも。吉兆楼から遣いの者も来たしのう。明日の試食会の準備のことが気がかりだっただけじゃ。が、それももう、すっかりいいようじゃな」


 華老師はニコニコと土間の縁台を見る。


 そこには、背負い袋にきっちりと詰めこまれた荷があった。

「王城に行くのに本当にこれだけでいいのか?」

 小英が心配そうに言う。

「うん。だいじょうぶ。必要な物は全部入っているから」



 香辛料や調味料、どうしても外せない料理器具。包子の生地。昆布の佃煮。マニ族の塩など、コンパクトにまとめてはいるが何種類もの荷物が入っている。

 香織にとっての『must』がすべて詰まった荷だ。



「ふぉっふぉっふぉ。それは良い。ならば、あとは風呂に入って、わしが淹れた薬草茶を飲んで、ぐっすり寝るだけじゃな」

「はい!」


――これはきっと、神様の采配。


 いろんな意味でそう感じた料理人選定の試食会。

(ぜったい、勝ってみせる。みんなのためにも、わたしのためにも。そして……耀藍様のためにも)

 そして、料理人に選定されれば、ほんの少しだけ、別れを惜しむだけの時間くらいは長くここにいられる。


 香織の胸の奥に炎がともる。

 その炎は静かに、そして勢いよく、香織の中で戦う原動力となって燃え上がっていった。





「いよいよですね」

 王の執務室。

 まとめ終えた資料を卓子の上で整え、鴻樹こうきが言った。

「準備は万端です。事前に双方より申し入れのあった食材や器材も、今日までに完璧に揃えてあります」

はどうだい?」

 もはやくつろぎモードの亮賢りょうけんは、茉莉花茶ジャスミンティーをすすりながら何気なく問う。

「はい、そちらの方も双方……というより、怪し気な動きがあったのは楊氏側だけですが。ゴロツキ連中が二度ほど、聖厨師せいちゅうしの周辺に現れましたが、こちらが派遣した兵により未然に排除しております」

「よかった。怪我をして不戦勝、じゃ国の使節の人員を選ぶのにお粗末だからね」

「あ、でも」


 鴻樹は言いかけて「なんでもないです」と流そうとして、しかし亮賢が食い下がる。


「なにさ、言いかけたことは言いなよ」

「いえ口が滑っただけですって。ほんとうになんでもないんですって」

「眠れなくなるじゃないか」

「ですから試食会の件には関係のないことなので」

「ねむれなくなるぅー鴻樹のせいでねむれなくなったぁあー」


 亮賢が手足をジタバタさせたので、さっきから黙って隣に座っていた耀藍ようらんは眉をひくつかせた。


「――鴻樹、たいしたことじゃないなら言ってやれ。せっかくの茶がまずくなって非常に鬱陶しい」

「すみません。でもほんとうに試食会にはほぼ無関係ですよ?」

「わかったから言え」

 蓋を開けて芳醇な茉莉花の香りを愉しんでから耀藍は茶を一口すする――。

「聖厨師が求婚されていたそうです」

「ぶはっ?!」


 耀藍は盛大に茉莉花茶を噴き出した。


「ああっ、ちょっとまたなの?! いったい何度目?! 耀藍のアホっ、余にも飛んできたじゃないかぁ」

 亮賢は声高に叫んですぐさま鴻樹が差し出した手拭で耀藍をぺしぺし叩くが、耀藍はまったく意に介さない。腰が上がりかけるほど身を乗り出した。


「きゅ、求婚って……どういうことだ?!」

「聖厨師を見張らせていた兵の話ですが……夕刻、建安の西門近くへ聖厨師が若い男と一緒に向かったそうです。そんな時刻にひと気のない西門へ行くなんて怪しいと思い、兵たちは後をつけたそうです。距離があって、会話はよく聞き取れなかったそうですが、男は聖厨師にひざまづいて『一緒にきてほしい』とか『迎えに来た』とか言っていたそうです」

「なっ……どんな男だ?! 香……せ、聖厨師はなんと答えたのだ?!」

「遠目でよく見えなかったそうですが、長身で、芸人並みのすっごい美丈夫だったそうですよ。聖厨師は『わかりました』とか『この件が終わったら一緒に行きます』とか言っていたそうです。きっと特使料理人の件にけじめがついてから求婚を受け入れるってことなんでしょう。さすがは聖厨師と呼ばれる方ですねえ」


 うんうん、と鴻樹はうなずいて、茉莉花茶を美味しそうに飲んでいる。


「求婚……」

 耀藍は呆然と長椅子に落ちこむ。


 亮賢が茉莉花茶をすすりながら目の端で耀藍をじっと見ていたが、それにも気付かいほど耀藍は打ちのめされていた。




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