第百五十八話 迎えにきた過去


 香織こうしょくは動けなくなった。


洸燕こうえんさんは、わたしが転生者だと気付いているの?)


 いや、それは有り得ない。

 だとしたら。


麗月リーユエのことを知っている人……?)


 転生した自分の、器になっているこの美少女。

 名を麗月リーユエといい、芭帝国の後宮にいたらしいこと、舞いや二胡が得意だったこと、皇太子に寵愛されそうになっていたこと、内乱の混乱で後宮から逃走し、多くの人々に守られながら国境を越えて呉陽国にきたらしいこと――今の香織に思い出せているのはここまでだ。


「あの……もしかしてわたし、洸燕さんと吉兆楼でお会いするよいずっと前から、お知り合いだったりしますか?」

 思い切って尋ねると、洸燕は少し怪訝な表情をした。

「いいえ。そんなことはありません」

「そうですか……」

 少し残念な気がする。麗月のことを知れる機会だと思ったのだが。

「知り合いなどと、畏れ多い。貴女は、国の母となるべき人だ」

「……え?」


 何を言われたかわからない香織の前に、洸燕が突然、膝をついた。


「お迎えに上がりました、麗月様」


 洸燕の口からその名が出てきたことに驚愕し、香織は記憶を秘していたことを忘れて叫んだ。


「なぜわたしの本当の名を知っているのですか?! 貴方は芭帝国後宮の人なのですか?!」

「……記憶を失っているようだと思っておりましたが、その御様子では思い出したのですね。よかった」

 香織はハッと口を押さえる。

「わたし……」

「麗月様。わたしは芭帝国の皇太子殿下に仕える者。俗に言えば間諜です」

「洸燕さんが、芭帝国の間諜?」

 まったく気が付かなかった。

「で、では洸燕さんは、わたしに……麗月に差し向けられた追手なのですか?!」


 声が震えた。後宮から逃走し追われたとき、執拗な追手は、麗月と行動を共にしていた者たちをすべて殺したのだ。


「追手ではありません。先ほども申し上げましたが、お迎えに上がったのです」

「なぜ……」

「皇太子殿下が貴女のお帰りを心待ちにしていらっしゃいます。私と一緒に芭帝国へ戻りましょう」

「そ、んな」


 記憶の中の紅い龍袍が脳裏によみがえる。麗月の舞いを食い入るように見る皇太子の視線は熱かった。

 内乱の混乱に乗じて後宮を出たとき、その寵愛から逃れられると安堵したことも思い出している。


「御心配には及びません。今頃、冷葉が華老師のお宅へ伺って今夜は帰宅しない旨を伝えているでしょう」

「冷葉さんが?」

「あれは私の妹です。吉兆楼での貴女の御様子を探らせておりました」

「冷葉さんまで、そんな……ぜんぜんそんな素振りは」

「後日、芭帝国へ無事に帰還した折には、華老師には正式な書簡と然るべき御礼を御送りします」


 洸燕は膝をついたまま香織に手を差し出した。


「呉陽国との国境安全保障の交渉が進んだおかげで、内乱は収束に向かっています。内乱が収まれば、すぐに皇太子殿下の御代がやってきます。そのときに、麗月様に皇后として隣にいてほしいと殿下はお望みです。さあ、私と共に芭帝国へ帰りましょう」

「……行けません」


 うつむいたまま、香織はきっぱりと言った。


「なぜです! 貴女は新しい時代の皇后となる御身なのですよ?」

「明日は、試食会があるんです」

「試食会? 料理なら殿下の元でも――」

「違うんです。芭帝国と呉陽国と山の民のための試食会なんです」


 顔を上げた香織は、洸燕を正面から見据えた。


「国境安全保障交渉で、話し合いが円滑に進むためのお料理を作る料理人を選定する、その試食会なんです」

「なんと……」

「わたし、試食会のために今日まで、いろんな人に力を貸してもらって準備してきました」


 辛紅しんこうに包子の真髄ともいうべき老麺を分けてもらったり、羊剛に塩を提供してもらったり、華老師や小英や青嵐に手伝ってもらったり。

 国境の安全は、安定した物流につながる。

 それは香織の周囲の人々の幸せにつながる。

(それに……耀藍様がわたしのためにがんばってくれているのだから、わたしもそれに応えたい)

 だから香織は、今日までがんばってきたし、試食会に勝ちたいと思っている。


「わたし、どうしても試食会に勝って、特使のお供をして、芭帝国と呉陽国と山の民の国境安全のお役に立ちたいんです!」

「麗月様……」


 特使の料理人の話を初めて知った洸燕は戸惑った。

 確かに、香織が受けたその役目は重要だろう。

(それに特使の料理人になれるかどうかはともかく、すでに明日の試食会に参加が決まっている香織……麗月様をここで連れていくのはまずいかもしれない)

 香織が麗月だと知られていなくても、明日の試食会に欠席すれば騒ぎとなり、呉陽国側の調査が入るだろう。

 そのとき洸燕と冷葉の正体が知れれば、せっかく良い方向に進んでいる呉陽国との関係に水を差しかねない。

 それに。

(試食会、そしてもし麗月様が料理人として選定されるなら、その功績も後に皇后となられるとき有利に働くだろう)

 そこまでの計算を巡らせ、洸燕は視線を上げた。


「わかりました」

「本当ですか?!」

「しかし約束してください。すべてが終わったら、芭帝国へ御一緒してくださると」

「そ、そんな急に言われても」

「その確約をいただけないなら、ここで麗月様の御意思に反するしかありません」


 洸燕の双眸に鋭い光が宿る。

 次の瞬間、洸燕は香織の背後にいた。

「こ、洸燕さん」

 首筋に洸燕の手刀を当てられ、身動きができない。

「お返事はいかに?」


 この人は本気だ、と香織は思った。首筋にわずかに当てられた手刀から、ぴりぴりと電流のようなものを感じる。これを殺気というのだろう。


(でも……洸燕さんたちと一緒に芭帝国へ行けば、わたしは今度こそ皇太子殿下の寵愛を受けることになる……)


 そうなれば、華老師や小英、青嵐、明梓やご近所の人々とはお別れだ。

 そして、おそうざい食堂とも。

 そして、耀藍とも。


 耀藍とはすでに永久に別れてしまっているが、同じ地にいるというわずかな希望さえも消えることになる。

 そして、ここで香織が抵抗すれば、きちんとお別れが言えないまま華老師たちと別れることになる。


(そんなことは絶対にできない! 異世界に転生したわたしを助けてくれたのは、華老師や小英や、おそうざい食堂に集まってきてくれた人々だもの)


 どのみち芭帝国へ連れていかれる運命なら、みんなに感謝の気持ちを伝えていける方がいい。


「……わかりました。特使の料理人の件が終わったら、洸燕さんたちと一緒に芭帝国へ行きます」


 自分で発した言葉に香織は衝撃を受ける。

 麗月の記憶が戻った頃から、ずっとどこかで恐れていたこと。

 前世の願いが叶ったこの異世界での幸せな生活が、終わってしまうこと。

 今、香織は、自分でそのカウントダウンへのスイッチを押したのだ。


「ありがとうございます、麗月様」

 ゆっくりと手刀が下りる。洸燕が安堵したのが背中越しにわかった。


「では今宵はお約束通り、華老師のお宅までお送りいたしましょう。未来の皇后様を芭帝国まで御守りするのが我らの役目ですので」

 洸燕は微笑む。

 それはおそうざい食堂で見せた明るく人懐こい笑顔ではなく、忠実で静かな笑みだった。

 これがこの人の本当の姿なのだろう。

 ショックで痺れた頭で、香織はぼんやり思った。



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