第百五十七話 おそうざい食堂は消滅するけれど。


 洸燕こうえんは迷っていた。


 旅芸人、そして芭帝国間諜を密かに任務とする洸燕にとって、迷うということはこれまでなかった。


 命令は必ず遂行する。それが洸燕たちのような者の生きる道だからだ。


 人を殺めたことはないが、敵対する相手の素性を憐れだと思ったことはある。しかし、それだけだ。憐れだと思うことと、命令を遂行することの間に関連性はない。いつもなら。


香織こうしょくを……麗月リーユエを拉致すればいい。それだけじゃないか」


 少女が一人、夜道で拉致するなど、洸燕と冷葉にとっては呼吸と同じくらい造作もないこと。

 しかもすでに洸燕は香織を信用させるための伏線を張っている。

 昨日、何やら絡んできたどこぞの令嬢を追い払い、おそうざい食堂に降りかかった火の粉を払ってやったのだ。

 すっかり洸燕を信用しているであろう香織は、拉致ではなく説得で芭帝国へ連れて帰れるかもしれない。


 それなのに、この迷いはなんだ。


「吉兆楼に迎えに行くと言ったとき、あまりにもあっさり香織が承諾したからか……?」


 あの疑うことを知らぬ天女のような柔らかい微笑みが、逆に鋭い針となって洸燕の胸をちくりと刺す。



 人々のために献身的に料理を作るあの少女を、おそうざい食堂から奪ってしまっていいのだろうか、と。



 否、香織がいなくなれば、おそうざい食堂そのものも存在できなくなるだろう。

 香織を拉致するということは、おそうざい食堂を潰すことと同じだ。



「しかし、麗月を殿下の元へお連れするのが、我が任務。そして、その任務を遂行すれば、我らは自由の身になれる」

 今回の任務完遂で、間諜からは足を洗ってよいと皇太子より許可を得ていた。



 荷造りをしている冷葉れいはを目の端で見る。

 幼い頃から旅芸人として各地を転々とし、長じて後は間諜の仕事も兄妹で遂行してきた。

 冷葉にも人並みの幸せを与えてやりたい。少し歳の離れた妹の幸せを、洸燕は親代わりと思って常に願ってきた。



(そうだ。迷う必要などない。麗月だって、殿下の寵愛を受ける身なのだから……料理がしたければ、殿下に作ってさしあげればいい)


 ——おそうざい食堂は消滅するけれど。


 その小さな自問は、香織の料理を食べたときに感じた郷愁と相まって、洸燕を再び迷いの淵へいざなおうとする。


 洸燕はそれを断ち切るように、通りを見下ろす窓辺から立ち上がった。


「準備はいいか、冷葉」

「ええ、いつも通りよ」


 小さな二つの荷。間諜が任務先を離れるときに持つ荷だ。


「吉兆楼の者たちの話だと、香織はいつも夕刻に吉兆楼での仕事を終えて、それから一人で市場へ寄って帰るのだそうよ」

「そうか。では、吉兆楼の前で香織と合流する」

「ええ。お願いね兄さん。あたしは給仕の仕事をいつもの刻限までやり終えてから吉兆楼を出る。そのほうが怪しまれないでしょう」

「そうだな。できれば手荒なことはしたくない。殿下の寵姫となる身だからな。市場へ行き、西の城門へ向かいつつ香織を――麗月をまずは説得する。そこへ追いついてこい。私は面が割れているから、おまえが華老師の家へ手を回しておいてくれ」

「わかったわ」


 冷葉は小さくまとめた荷物を持って部屋を出ようとしたが、

「冷葉」 

 洸燕の呼び止めに振り返る。


「どうしたの兄さん?」

 訝し気に見る妹に、洸燕は黙りこむ。何を言おうとしたのだ私は、と自嘲したとき、思いがけず言葉が突いて出た。


「いや……その、美味かったな。香織の料理は」


 冷葉はきょとん、として、それから困ったような苦笑をこぼす。


「そうね。とても懐かしくて……美味しかった」

 間諜らしく音をたてずに閉められた扉を、洸燕はしばらく見ていた。





 吉兆楼の暖簾をくぐると、そこに長身の人影が立っていて、思わず香織はどきりとした。

 耀藍も、こんなふうに香織を待っていてくれた。

 もっとも、耀藍は少し先の茶屋の店先で、甘味の器を山ほどカラにしていることも多かったが。


「洸燕さん、こんなところでどうしたんですか?」

「やだな、香織さん。お一人は危ないから、華老師のお宅まで送ると言ったじゃないですか」


 洸燕は笑ってさりげなく香織と並んで歩き出す。


「そ、そうでしたね……でも、やっぱりいいですよ。わたし、市場に寄っていくので」

「おお、市場! 名高い建安の夜市ですね! 実は私、行ったことないんですよ。芸人だから、夜は御座敷に呼ばれることが多くてね。ぜひ行ってみたいなあ」

「は、はあ……」


 行ってみたいと言われたら、断るわけにもいかない。


(でも、正直ちょっとツラいな……)


 夜市には、吉兆楼の帰りによく耀藍と行った。二人でいろんな物を見て歩いた。成り行きで手をつないだこともあった。

 洸燕と並んで歩くと、あの頃のことを思い出してしまう。

 甘くて愛おしい思い出だが、今は切なくて、胸が苦しくなって、あまり思い出したくなかった。


(こんなことじゃいけない! 明日の試食会に備えてしっかりしなくちゃ!)


 試食会の調理で使う香辛料を、自分で見て用意したかったので、香辛料の店を回る。それから、今日の夕飯のために肉屋に寄った。


「もうおしまいですか?」

 洸燕は拍子ぬけしたようだ。

「女性の買い物は長いものとわかっていますし、私はじゅうぶんお付き合いするつもりで来たのです。遠慮しなくていいんですよ」

「いえ、いいんです。あまり歩くと、よけいな物を買ってしまって、お金を使ってしまうので」

 香織は笑った。

「それに……明日は朝が早いので」

「それは残念です」

「え?」

「私は、明日にはもう芭帝国へ向かう帰路についているので、建安とは今夜でお別れなのですよ」

「そうだったんですか……」

「よかったら香織さん、少しだけ私の散歩に付き合ってくださいませんか? 建安での思い出に」

「え……ですが、お夕飯の仕度が」

「やっぱりダメ、ですか?」


 洸燕が寂しそうに微笑む。

 その微笑みの切なさに、香織は胸がつきんと痛む。


(洸燕さんは、佳蓮様の騒動を納めてくれたわ)

 きっと、香織に好意を持ってくれているのだろう。

 旅芸人の洸燕とは、この先二度と会うこともないかもしれない。そう思うと、騒動を納めてくれた恩返しは今しかできない気がした。


「なら、少しだけ……お夕飯の準備に、間に合うくらいに」

「ありがとうございます! やあ、今宵は幸運だな」


 洸燕は東西の目抜き通りを、人通りの少ない西へ向かって歩き出した。


「洸燕さん、西の方には、あまり露店はないそうですよ。あちらには西の城門があるばかりだと」

「かまいません。私は静かな所で、貴女とゆっくり話がしたいのですよ」

「お話、ですか……でもわたし、料理以外はこれと言って趣味もないつまらない人間なので、洸燕さんのような楽器も歌も上手な方のお話相手にはならないかと……」

「いえいえ、貴女は実に素晴らしい舞いを舞えるではありませんか」

「そ、そんなことは……わたしは、本当に芸事のことは知らないんです」


 洸燕が吉兆楼での舞いを素晴らしいと思ってくれて、もっと深い話をしたいと思っているなら申しわけない。

(だってあれはわたしじゃなくて、麗月の記憶だもの……)


「私は貴女に聞きたいことがあるのですよ」


 洸燕は立ち止まって香織の顔をじっと見つめた。

 その一瞬で香織は思わず身をすくめる。

 洸燕の眼差しは、さっきまでの熱を帯びたものと違う。何かもっと、鋭い光を湛えていた。



「貴女は、本当の自分を知りたいと思ったことはありませんか?」











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