第百五十六話 誠心誠意の餞を



「こんなにたくさん卵を焼いたら、殻が焼き切らないのではなくって?」

 どうやら佳蓮は卵焼きを知らないようだ。

 心配そうに言う佳蓮に、香織は思わず微笑んだ。


「佳蓮様、卵は殻ごと焼くのではなく、殻を割って中身だけ焼くのですよ」

「えっ、そうですの?!」

「はい、こんなふうに」


 香織は卵を一つ取って、割ってみせた。

 佳蓮は「まあ!」と目を輝かせてそれを見ている。


「やってみますか?」

「そ、そうね。たいしたことなさそうだもの」


――それから約10分。


 佳蓮は籠に積んであった卵をほぼすべて割った。割ったというか、潰した。

 ある卵は殻ごとぐちゃぐちゃになり、ある卵はきれいに割れた殻からすべり落ちた。


「な、なんなの卵って……忌まわしい呪いの食べ物ですわ! こんなにもあたくしを嘲笑うとは、いい度胸ですわっ!」

 怒り心頭の佳蓮にくすくすと微笑んで、香織は泡だて器を渡した。


「はい、ではその腹立たしい卵を、ぐっちゃぐちゃに混ぜちゃってください」

「わかりましたわっ。あたくし、先刻よりの怒りをこめて卵をぐっちゃぐちゃに成敗してやりますわ!」


(その視点はどこか違うような気がする)と端で見ている青嵐と乙は思ったが、なぜか香織と佳蓮が不思議な連携をとっているので静かに見守る。


「こうしてやりますわっ!!」

「はい、お砂糖と酒とお出汁を投入します! 佳蓮様はそのまま混ぜて! いい感じですよ佳蓮様!」


 大きな器を押さえつつ香織が調味料を投入し、佳蓮は泡だて器を叩きつけるようにふるっていく。



「はあ、はあ……ちょっとすっきりしましたわ」

「はい、理想の状態です、佳蓮様。今度は、これを焼きましょう」


 竈では、すでにあつあつの鉄鍋に油が温められ、湯気をあげている。


「さあ今です! 一気に流しこんじゃってください!」

「いきますわよっ! とうりゃあぁあぁあああ!」



 じゅわあ……


 熱した油の中で、瞬時に卵が泡立ち、形を成す。


「ざまあみろですわ卵……ていうか、なんだかこの『じゅわあ』は小気味良いですわね」

「ふふ、そうでしょう。さ、佳蓮様、卵への憎しみも晴れたところで、今度は佳蓮様のお心を鎮めてくださいね。こうやって、優しく混ぜながら」


 周囲ではなく、真ん中の卵液がふつふつしている場所を、香織は大きく菜箸で混ぜていく。


「真ん中も卵が固まってきましたわ」

「さ、佳蓮様もどうぞ」


 菜箸を受け取った佳蓮は、おそるおそる菜箸を動かす。


「不思議ですわ。あれほど憎かった卵が、今度は愛しく思えますわ」

「はい、そうなったら仕上げです。見ていてくださいませ」


 香織はしゃもじに似た、こちらの世界のフライ返しを使って、端から卵をすくって寄せていく。


「卵が! 丸まってきましたわ!」

「はい。こうやって、細長い形に整えていきます」


 卵が完全に棒状になったところで、香織は鍋を火から下ろした。

「これが卵焼きですよ」

 準備しておいた固く絞った手拭の上に出して、よく切れる包丁でサッと切り目を入れる。


「んまああ! なんて美しい色ですの!」

 切り口を見た佳蓮は、感激の声を上げた。

「本当は冷めてから切った方がいいんですけどね。今は焼きたてを佳蓮様に試食していただくので」


 受け取った小皿の卵焼きを口にした瞬間、佳蓮はとろけるような表情になった。


「甘い……のにお菓子ではありませんわ。不思議……」

 小鳥のような小さな口に、黄色い卵焼きがあっという間に消えるのを見て、香織は顔を綻ばせる。

「気に入っていただけてよかったです。同じことを最初、耀藍様もおっしゃってました」

「耀藍様が」

「はい。ですから、毎日でも作ってさしあげるといですよ。卵を割る練習にもなりますしね」

「あたくしが……」


 佳蓮は呆然と、手元を見る。

 香織に作業をさせて乙に書付を作らせるはずが、いつの間にか佳蓮自身が調理をしていた。


「あたくしが、作るというの?」

「ええ。王城には腕の良い料理人がいることと思いますが、佳蓮様が作ったほうが耀藍様もお喜びになると思いますよ。佳蓮様が耀藍様を大事に想っていらっしゃる、その想いが直に伝わる、それが料理ですから」

「……そうですの?」

「はい」


 微笑んで、香織は洗い場に佳蓮をいざなう。

 そこに青々とした小松菜が積まれていた。


「次は、小松菜の和え物ですが……どうしますか? お疲れなら、椅子にお座りになって見学していただいてもいいですよ?」

 気づかわし気に覗きこんだ香織に、きっぱり佳蓮は首をふった。

「いいえ、あたくし、やるわ」

「佳蓮様! だいじょうぶでございますか?!」

 乙があわてて駆け寄る。

「こんなに長いこと作業をするなんて、普段の佳蓮様には無いことです! 白魚のような御手もそんなに赤くなって! ささ、こちらでお休みに――」

「いいのよ乙! あたくし、やりたいのですわっ!」


 制止する乙を振り切って、佳蓮は香織の隣に立った。


「次はどうすればよろしいの?」

 先刻とは打って変わって、みずから次の行動を聞いてきた佳蓮に香織は微笑んだ。

「はい、次はですね――」



 こうして二人の調理実習は、明梓が来るまで続いた。





 甘めの卵焼き。小松菜の和え物。そして、昆布の佃煮の入ったおにぎり。

 それらを詰めたお弁当箱を、香織は手を伸ばしてきた乙へ――ではなく、佳蓮へ手渡した。


「持って帰って、耀藍様と召し上がってください」

「お待ちなさい! 貴女、佳蓮様にこんなにご無理をさせて、この上また荷物まで持ち帰れというの?!」

「いいのですわ乙、あたくし、自分で持ち帰りたいですわ」

「し、しかし」

「あたくしが初めて作った料理ですもの。あたくしが持ち帰りたいわ」


 おろおろと心配そうな乙を気にも留めず、佳蓮はしっかりと包みを抱えて。

「料理って、意外と楽しかったですわ」

 顔を真っ赤にして、ぼそっと言った。


「佳蓮様……」

 香織がうれしさに笑むと、佳蓮はあわててそっぽを向く。

「ま、まあ料理は下賤な作業と言ったのを取り消してもいいくらいだったということですわ!」

「それはよかったです。ぜひ、耀藍様と楽しい食卓を囲んでくださいね」


 微笑む香織を、佳蓮は上目遣いにちらちらと見る。


「?」

「貴女、イヤじゃないの?」

「何がでしょうか?」

「だって、その……貴女は耀藍様とその、恋人……少なくとも、周囲で噂が立つほどには仲がよろしかったのでしょう? なのに、あたくしに耀藍様の好物などを教えて……」

 香織は笑ってゆるゆると首をふった。

「いいのです。わたしがお伝えしたことは、新婚のお二人の食卓に必ずやお役に立てると思います。わたしからの、ささやかな御結婚祝いですから」


 御時間です、と乙に促されて背を向けた佳蓮は、門を出るときに立ち止まった。



「……ありがとう、香織。あたくし、貴女が聖厨師せいちゅうしと呼ばれる理由が分かった気がしますわ」



 早口に言って、佳蓮は通りを足早に歩いていった。

 




「そう、これでよかったんだわ」


 吉兆楼に向かう道すがら、香織は一人呟く。



 耀藍と自分を固くつないでいたものは料理。

 その料理だけは、二人の聖域のはずだった。

 けれど、耀藍の幸せのため、香織はその聖域を佳蓮に引き渡した――いや、引き継いだ。


「これで耀藍様がわたしを特別だと思う気持ちはなくなる。決められた結婚であっても、佳蓮様と向き合っていける」

 二人で笑顔あふれる幸せな食卓を毎日囲めば、きっと愛情も生まれるだろう。



 香織は、そっと胸元の首飾りを握る。

「耀藍様は、わたしにこの御守りを残してくださった。わたしからは――」

――耀藍の好物を耀藍の花嫁に引き継ぐ。

 それが、香織が耀藍のためにしてあげられる、精一杯のはなむけだ。



「こんなことができるのも、43歳主婦のたくましさよね! さ、仕事仕事!」


 明るく微笑んで、香織は汗を拭くふりで目元をそっとぬぐった。





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