第百五十五話 愛する人が幸せな食卓を囲むために



「もーっ、なんであたくし、また来てしまったのよっ」

 おそうざい食堂の前で、佳蓮は身悶えした。


香織こうしょくの顔なんて二度と見たくないのにっ……」

佳蓮かれん様、お気を強くお持ちになってくださいまし。佳蓮様が耀藍様のためだとおっしゃったから、このおともお忍びの手配をしたのですわ」


 乙の言葉に佳蓮はハッとする。


「そうですわ! 耀藍様が気に入っていた料理とやらが何だったのか、それを香織から聞き出さなくては! 香織の料理が耀藍様の心をつかんでいたのなら、あたくしがその料理を用意できれば耀藍様の心はあたくしに向くはず!」

「もちろんですとも!」

「乙、書付の用意はよくって?」

「ばっちりです!」


 乙が掲げた帳面と筆を見て、佳蓮はまだひと気のないおそうざい食堂の門をくぐってすぐ、鼻をすんすんさせた。

「なにかしら、この匂い……」


 厨から湯気が上がり、いい匂いがしている。

 そのとき厨から出てきた少年が声を上げた。

 色の浅黒い、芭帝国風の少年だ。確か名を、青嵐せいらんといった。


「あっ、おまえは昨日のいちゃもん野郎!」

「無礼者っ! 佳蓮様になんということを!」

 すかさず気色ばんだ乙を佳蓮はやんわり押しとどめた。


「いいわ、乙。それより貴方。香織は中にいる?」

「いるけど、何の用だよ。昨日みたいにいちゃもんつける気なら、ここで帰ってもらうぞ」

「料理のことを聞きに来たのよ」

「はあ? おまえが?」


 小馬鹿にしたような青嵐に、佳蓮も負けじと掌を返した高笑いで応じた。


「おバカさんね。あたくしが料理なんて下賤な行為をするわけないでしょう。乙に作り方を覚えさせるに決まっているじゃないの」

「……おまえはやっぱり帰れ」


 青嵐が声を低くして手に持った箒を構えたとき、


「佳蓮様?」

  厨から香織が手をふきふき出てきた。


「朝早くから、ようこそおいでくださいました」

「香織、相手にしない方がいい。追い返そうか?」


 嫌そうに言う青嵐の言葉は、「まああっ」という佳蓮の叫びに消された。


「相変わらず朝から汗なんかかいて、汚い人ね。このあたくしが貴女に料理の作り方を聞いてさしあげるのだから、光栄に思いなさい!」

「なあ香織、マジでこの女、追い返すから」


 佳蓮と乙に箒を突き出した青嵐を、香織はあわてて止めた。


「ダメよ青嵐。佳蓮様、よく来てくださいました。料理のことなら厨に入っていただいた方がわかりますから、どうぞ」


 本気で腹を立てている青嵐とは対照的に、香織はごく穏やかに佳蓮と乙を厨へいざなった。まるでこうなることを予想していたように。


「佳蓮様、耀藍様が気に入っていた料理のことをお聞きになりたいのでしょう?」

「そ、そうよっ、悪い?!」


 香織は微笑んで首をふった。


「いいえ。御一緒に食卓を囲む方に喜んでもらいたい、という佳蓮様のお心は素晴らしいと思います」



――前世、わたしが続けられなかったこと。


 夫に、家族に、毎日笑ってほしい。

 食卓が家族を結ぶ談笑の場であってほしい。

 そう願っていたのに、いつの間にか生活に圧されて、食卓は冷え切ったものになっていった。


 耀藍には、あんな思いをしてほしくなかった。決められた結婚であっても、せめて温かな食卓を囲み続けてほしい。


 そのためには、花嫁である佳蓮が料理に関心を持つことがいちばんだ。

 だから。




「もしかしたら今日、佳蓮様が来るような気がして、いろいろと準備していたのです」

「準備ですって?」


 香織は厨の中のひとつひとつを手で指し示していく。


「この鍋の中、床下の貯蔵庫、洗い場の野菜、壺に付けてある泡菜。この厨にあるほぼすべての物を、耀藍様は愛してくれていました」

「愛して、って」


 妙になまなましい表現に佳蓮はどきりとし、腹もたったが、香織の毅然とした様子や虚勢のない誠実な態度につられて、押し黙る。


「その中でも、特に気に入っていた物がいくつかあります。例えばこれ」


 香織は、貯蔵庫から掌にのるほどの小さな壺を取り出した。


「耀藍様は炊きたてのご飯と一緒に、この昆布の佃煮を食べるのがお好きでした」

「な、なに? これ……?」


 香織が開けた壺の中には、何やら黒い細長い物がたくさん入っている。

 つやつやとしたそれには胡麻が絡んでいて、甘辛い香りの中にほんのり生姜の香りが混ざっている。


「食べてみますか?」

 小皿に出された昆布の佃煮を受け取って、口に入れた佳蓮は、

「……おいしい」

 思わず呟いていた。

 こっくりとした甘辛さと胡麻のこうばしさ、生姜の風味が白いご飯を呼んでいる。


「気に入っていただけてよかったです。これは、出汁を取ったあとの昆布を使って作る物です。お出汁は毎日、何かに使いますから、出汁取り昆布はたくさん使います。その出汁を取った昆布を保存しておいて、三日に一度くらいの頻度で甘辛く煮詰めれば、佃煮の完成です」


 香織の言ったことを懸命に帳面へ写している乙の横で、佳蓮は鍋や調理器具を手に取った。


「こういう道具はどこから仕入れるのよ」

「道具屋に行けば売ってます。王城の厨でしたら、きっとなんでも揃っていますよ」

「ふうん。そういうものかしら」

「はい。心配しなくて大丈夫ですよ。あと、耀藍様は甘めの卵焼きもお好きでしたね」

「は? 卵焼き? 卵を焼くの?」

「作ってみますか?」

「え?! あたくしが?!」

「はい。卵焼きならすぐに作れて手軽ですから、実習にちょうどいいかと思って」


 香織は準備しておいた卵と調味料を佳蓮に見せた。


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