第百五十三話 Gを入れた犯人は


「待ってください!」


 華老師宅からそう遠くない四辻で、香織こうしょく佳蓮かれんに追いついた。


「あの、本当に虫が入っていたのなら謝ります。あんなに大きなG……いえ、蟑螂しょうろうが入っていたら驚きますよね。わたしもゴキ……蟑螂しょうろうは苦手なのでお客様の気持ちは――」

「佳蓮」


 肩で息をしていた佳蓮が振り返った。


「え?」

「あたくしは佳蓮。あなたのような下々の者に名を教えることを光栄に思いなさい」

「は、はい」


 着ている襦裙や立ち居振る舞いから想像はできたが、やはり身分の高い貴族か何かなのだろう。小柄な女性も香織を見下すように佳蓮の隣に立った。


「あなた、本当に汁物に虫が入っていたとお思いなの?」

「それは……どういう意味でしょうか」


 おそるおそる尋ねると、佳蓮は香織を睨みつけた。

 香織はその時、やっと気付いた。

 佳蓮というこの美しい少女は、香織を憎んでいる。


 そして、おそらく汁椀にゴキブリを入れたのは――この美少女だ。


「どうして……」

「あなた、耀藍様とどういう御関係でしたの?」


 いきなり耀藍の名が出てきて香織は言葉が継げない。

 そして、次の言葉でさらに衝撃を受けた。


「あたくしは、耀藍様の婚約者なの」


 香織は打ちのめされたように立ちつくす。


(この方が王家の末の王女様で、耀藍様の……)

 

 端から見れば今の香織は、佳蓮と並んでもまったく遜色がない。

 むしろ儚げな美しさで香織の方が美少女と思う者は多いと思われるが、香織の脳内自分像は43歳主婦のまま。


(わたしなんかより、この方なら耀藍様とお似合いだわ……)


 王女でしかもこんなに綺麗な佳蓮と自分を比較するのさえ、おこがましく思える。


 王女は腕を組み、香織を見下げるように言った。背は香織の方が高いのだが。


「あなたと耀藍様が恋人だったというのは本当なのかしら」

「そ、それは……」

「まあいいわ。あなたと耀藍様がどういう関係だったとしても、耀藍様は蔡術師として王城へ入り、王家の末の王女——つまりあたくしと結婚することは決まっていることですもの。あなたもそれは御存じなのでしょう? まさか、今さら身の程知らずなことをなさってはいないわよね?」


(そうか……佳蓮様は、耀藍様とわたしがまだお付き合いしていると思っているんだわ)


 だから心配になっておそうざい食堂へやってきたのだろう。


(ということは、佳蓮様は耀藍様を愛しているんだわ)


 その事実は香織の胸を深く鋭くえぐったが、同時にホッとした。


(耀藍様が、御相手の方に愛されてよかった……!)

 決められた結婚で愛もなく一生を過ごさなくてはならないのでは、と香織は心配していたのだ。

 だから悲しくても笑顔で言えた。


「御安心ください。耀藍様とは、これまでも今も、佳蓮様が御心配になる関係ではございません」

 佳蓮は少々面食らったようだが、疑うように香織を睨んだ。

「本当でしょうね?」

「はい。どうか御心配なく」


 香織がしっかり頷くと、つんけんした空気が和らいだ。


「ふ、ふん、わかればいいのよ、わかれば。今後は行動を慎むことね」

「はい、気を付けます。あの……一つ、お願いしたいことがあるのですが」


 おそるおそる言うと、佳蓮は臣下に対するようにちら、と香織を見る。


「なにかしら」

「耀藍様とわたしは、料理を食べる人と作る者、という関係でした。耀藍様はわたしが作った物を美味しいと食べてくださり、気に入ってくださりました。ですので、おそうざい食堂が傷付けば、耀藍様も傷付くかと。ですから……今後は虫などを混入することは無きよう、お願い申し上げます」


 きっぱりと言って頭を下げると、佳蓮は決まり悪そうに顔を赤らめた。


「無礼者っ。なんのことかわからないわっ」


 踵を返した佳蓮の背中に、香織は声を掛ける。


「またいらしてください。耀藍様がお好きだった献立を、佳蓮様にもお勧めしますから!」

「よ、耀藍様もあたくしも二度と行きませんわっ、あんな下賤な場所っ」

「そうですとも、二度と行きませんとも!」


 佳蓮とお付きの女性は捨て台詞のように叫んで、今度こそ行ってしまった。





「っくっしょん!」

 耀藍は盛大にくしゃみをした。


「誰かが噂しているのかもしれませんね、耀藍殿」

 一緒に資料を見ていた鴻樹がふと顔を上げる。

「噂と言えば、おそうざい食堂で佳蓮様をお見かけしましたよ」

「……は?」


 耀藍は佳蓮の存在を忘れかけていた。

 耀藍の中で、佳蓮は亮賢の妹という位置づけは昔も今も変わらない。自分の婚約者という実感はまったくない。


「なぜ佳蓮がおそうざい食堂に?」

「さあ……私にも理由はわかりませんが。ですが、不味いのなんのと騒いでいらっしゃいましたよ。無料で配布された汁椀、これがトマトを煮込んだ中に野菜がたっぷり、塩の効いた肉まで入った美味なる汁物だったのですが……それについて文句を言っていたようです」


(トマトを煮込んだ汁物だと?!)

 耀藍の目の色が変わる。日頃から、耀藍は火を通したトマトが好きだ。


(そしてそして! 野菜たっぷりに、塩気の強い肉は香織が肉を日持ちさせるときに作っていたアレだな……うう、聞いているだけで美味そうではないかっ)


 口の中にヨダレが溜まるのを必死に隠す。

 鴻樹は資料に次々と目を通しつつ、さらりととんでもないことを言った。


「それで、後宮で聞いた噂なんですが……佳蓮様の突然のお忍びは、耀藍様の浮気相手を探しだすのが目的なのでは、と」

「?!」


 あやうくヨダレを吹き出しそうになった耀藍は、手拭で口元を拭った。

(香織とオレが相思相愛だということは、他ならぬ香織とオレ以外は知らないはず……あの日、互いに想い合っていることを初めて確かめたのだ。それをなぜ佳蓮が知っている?! というか浮気ってなんだ!!)


 耀藍が香織を好いていることなど、周囲にはダダ漏れ。その周囲への聞きこみから佳蓮は情報を仕入れたまでだ。

 知らぬは耀藍だけ、ということを耀藍は知らない。


 鴻樹が資料からちらっと目を上げた。

「で? してるんですか? 浮気」

「そんなヒマあるかっ。ずっとそなたと王城ここで仕事をしているんだぞ?! ていうか、浮気ってなんだっ。オレは佳蓮を女人として見たことなどないのだぞ?!」


 しーっ、と鴻樹が周囲をうかがい、ささやく。


「佳蓮様の耳に入ったら殺されますよっ」

「ふん、術師相手にやれるものならやればいい。受けて立とうではないか」

「もう、ムキにならないでください。ていうか、この期に及んでなぜ佳蓮様のことを受け入れないんです? 佳蓮様、まあ少々御気性はアレですけど美女じゃないですか」

「そういう問題じゃないっ」

「じゃあどういう問題なんです? 王家の末の王女と結婚することは、耀藍殿は昔から知っていたんでしょう?」

 耀藍はむくれてそっぽを向く。

「知っているのと、受け入れるのは違う。それに……」


 ある日突然現れた、すみれ色の瞳の少女。

 どんなにあがいても、どうせ死ぬまで王城という鳥籠で過ごすことになる――と半ばヤケに過ごしていた耀藍の日々に、光と色と美味しい料理をくれた人。

 その人と、心から一緒にいたいと、今でも願う。

 そこに他の女人の入る隙間などない。

 これが恋であり愛というものだと、耀藍は初めて知ったのだ。


「それに? なんです?」

「――いや、なんでもない。とにかく浮気云々という噂は鴻樹の職権を乱用してでも全力で否定しておいてほしい。それから、佳蓮におそうざい食堂へ行くなと言ってくれ。おそうざい食堂の迷惑になるから」

「自分で言えばいいじゃないですか。夫婦なんですから」

「まだ夫婦じゃないっ」


 すっかりヘソを曲げて、鴻樹に背を向けて資料を読み始めた耀藍に苦笑しつつ、

(そういえば、もう一人の王家の王女について、報告書が上がっていたな)


 懐から出した小さな報告書を取り出す。


 国境を越えて呉陽国に入ったという王の落胤の王女の足どりを調べさせていた。

(困ったことだ。佳蓮様にもなびかないなんて、耀藍殿はよほど結婚に興味がないようだしな……そしたら、この件を調べる意味もないんじゃないか? いやいや、きちんと調べて、耀藍殿の正統な結婚相手を明確にしなくては)


 それが耀藍に対して、鴻樹ができる精いっぱいの誠意だ。


 小さく折りたたまれた紙を丁寧に広げ、目を通した鴻樹の顔色が、変わった。




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