第百五十二話 深窓の王女のミステイク
客商売というのは、クレームが入ったらまず謝罪する。
たとえ相手がモンスタークレーマーであったとしても。
前世、パートで嫌というほどそれを知っていた
「ちょっと待ってください!」
上がった声に振り返ると、そこには汁椀を手にした
「洸燕さん?!」
「私が少し話してもいいかい?」
「え、ええ」
「なんですの貴方は」
睨んできた美少女を気にも留めず、洸燕はしん、とした周囲の客たちを見て、視線を美少女に戻す。
(たしか、この少女は――)
顔に見覚えがあった。王城で、宋元に供をして王の御前にて一曲披露した際、王族の席に列していた少女だ。
(――王の末の妹君。なぜ、こんなところに。しかし、そうか。深窓の王女は世情を知らないのだな)
合点し、洸燕は自分の汁椀を周囲に向かって見せた。
「今日の汁物はトマトと卵の汁物。その名の通り、具材はほぼトマトと卵で、香味として玉ねぎが入っている、いたって簡素かつ滋味あふれる汁物です。私は給仕していただいて、すぐに完食しました。もちろん、虫は入っていませんでした」
「な、なんですの貴方は! いきなり話に割りこんできて! 貴方の汁椀には入っていなかったかもしれないけど、あたくしのには入っていたのよ!」
「そう、そこなんです」
洸燕は佳蓮の汁椀をさりげなく受け取った。
「こんなに具材が簡素な汁物の鍋に、こんなに大きな虫が入っていたら気付くと思うんですよ。げんに貴女は、すぐに気付いて声を上げたのでしょう?」
「そ、そうよっ。当たり前じゃない! そんなに大きな虫が入っているなんて、明らかに厨の料理人の不手際だもの! 皆さまもそう思いますわよね? 思うはずですわ!」
高飛車な問いかけに人々は困惑気味に顔を見合わせ、卓子に出された料理から箸を付けたり置いたりしている。
汁椀はもちろん、照り焼きも包子の皮も美味しそうな湯気と匂いを上げているが、しかし。
高飛車な美少女がかかげる汁椀から飛び出すトゲトゲした黒い脚を見ると、すぐに飛びつくのがためらわれるのだった。
「しかもその虫、おそらく
静かに問うた洸燕に、佳蓮は勝ち誇ったように胸を張った。
「そう! やはりご存じよね。誰もが知っているおぞましい虫だわ」
「そうですね。蟑螂はおぞましい虫だ。ですが、呉陽国では出ないはず。少なくとも、民家の密集する地域では」
小馬鹿にしたように佳蓮が鼻で笑った。
「はあ? あなた、御存じないの? 蟑螂というのは山野に住む普通の虫とは違いますのよ? 人が住み、残飯があるところに出るの。それは学者と役人によって確認済みですのよ?」
「たしかに。しかし、貴女は御存じなかったのでしょうか。呉陽国では過去に蟑螂を介して病が流行ったことから、貴女がおっしゃったように学者と役人が蟑螂を封じこめる政策を展開、結果、少なくとも建安では撲滅宣言できるほどに蟑螂は出ない、ということを」
洸燕の言葉に佳蓮はかたまる。
周囲の人々も、「たしかに数年前はいたけどな」「蟑螂なんて、このところめったに見ないよな」などというささやきが聞こえる。
「そ、そんなっ……」
「今、建安で蟑螂がいるとしたら、王城内に設けられた学術研究施設の中で――」
「おだまりなさいっ!!」
佳蓮は顔を真っ赤にして怒鳴り、卓子を叩いた。
洸燕が、にっこりと笑む。
「では、この虫はたまたま貴女の汁椀にだけ間違えて入りこんでしまった、ということでよろしいですね?」
周囲に安堵のざわめきが広がる中、佳蓮はわなわなと震えながら走っていってしまった。その後を、野ネズミのような女性がおろおろと追いかけていく。
それを目の端で見送り、洸燕は庭院の人々に向かって言った。
「私はこちらの食堂へ来たのはつい最近ですが、こんな質の高い汁椀を無料で給仕してくれるなんて、驚きました。おそうざい食堂の料理人・香織さんが虫の混入した料理を皆さんに出すはずありません。皆さん、安心して食べましょう」
わっと歓声が上がり、人々は待ってましたとばかりに箸を取った。
「あの、ありがとうございます、洸燕さん」
洸燕が振り返り、香織の肩をそっとつかんだ。
「私はこの食堂が好きなんですよ。そして、あなたのこともね」
目を瞠った香織に、洸燕が微笑む。
「今日、吉兆楼の前で待ってます。こちらまで送らせてください。いいでしょう?」
「え、と」
よくはなかったが、香織の頭の中は今、佳蓮を追いかけなくてはという思いでいっぱいで。
「わかりました」
とつい返事をする。
洸燕は、うれしそうに笑みをこぼした。普通の女人ならよろめいてしまうような、皓歯のまぶしい微笑み。
「では夕刻、吉兆楼の前で――」
「わ、わかりました!」
たまらず香織は走り出す。早く追わなくては、佳蓮を見失ってしまう。
「香織さん? どちらへ?」
「すみません! ちょっとだけ外へ……明梓さんごめんなさい! すぐに戻ります!」
香織は急いで門の外へ走った。
「あーあ、香織、やっぱりあの娘のこと、放っておけないんだねえ」
横でぼやいた明梓に洸燕は尋ねる。
「香織さんは、いつもあんな風なんですか?」
「ああ。あの子は、困っている人を放っておけないのさ。おそうざい食堂も、そうやってできたんだ」
「そうでしたか……」
「あたしたちにとって、ここは大切なかえがえのない場所さ。だから、あんたには感謝するよ。あんな金持ちそうな娘が大騒ぎしたら、店に役人でも来るんじゃないかってひやひやしたからね。ただの色男じゃなかったんだねえ」
明梓は洸燕の背をばしん、と叩いて、厨へ入っていった。
「困っている人を放っておけない、か」
ならば。
内乱で荒れた芭帝国を皇太子殿下が新たな皇帝となって立て直すなら、その横に麗月がいるのは最善に思える。
「やはりなんとしても、麗月を芭帝国へ連れて帰らなくてはな……」
祖国のために。自分たちの自由のために。
洸燕のささやきは、美味しい料理に沸く客たちの喧噪に消えていった。
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