第百五十話 耀藍からの首飾りは、そのとき。



「いってらっしゃい、華老師かせんせい小英しょうえい

 香織こうしょくは門の前で二人に大きな麻袋を渡そうとして、ためらった。

「あの……ほんとうにすみません。お買い物、やっぱりわたしが行ったほうが……」

「もう、香織は本当に気ぃ使い屋だな。だいじょうぶだって!」

 小英が笑う。

「買い物の書付もちゃんと持ったし、ちゃんと言われた物を全部買ってくるから心配するなって」

「そういうことじゃなくて……やっぱり申しわけないよ」

「そんなことはない。わしと小英は往診で建安の中を移動するんじゃ。ついでに買い物するのはどうということはない」

「でも……」

「はいはい、ほら、袋貸して。じゃあいってくるからな」

「う、うん、小英、気を付けてね。華老師も」


 笑顔で手を振る二人を見送り、香織は厨へ戻る。


 きのうの夜みんなで話し合い、香織が特使の料理人の件に集中できるように、華老師、小英、青嵐もできることを手伝うと決めた。

 そこでさっそく、往診のついでに小英と華老師が買い物に行ってくれることになったのだが。


「うう、なんか申しわけない……やっぱり人にお願いするのって、慣れないわ……」

 そう、この罪悪感。

 人に何かをお願いすると、何か大事なことをし忘れたような、後ろ髪引かれるような罪悪感にさいなまれる。

 だから前世——香織は、誰かに何かを頼むことがめったになかった。


「でも……」


 そうやって自分で抱えこむことが、前世の家族がうまくいかなかった原因の一端だったかもしれない、ということに、異世界に来てからやっと気付いたのだ。


「そう、そうよ。頼らせてもらうって決めたんだから」

 そうやって、人と人との信頼関係や絆は、作られていくのではないか。きっと。


「考えてみれば、華老師や小英の方がわたしよりもこの世界に住んで長いもの。きっとお買い物もわたしより慣れているわ……それよりも、わたしはわたしのやるべきことをやらなくては」


 そうして、香織は今日のおそうざい食堂の仕込みを始めた。





「香織、俺、そろそろ行ってくる」

 青嵐が厨に顔を出した。

「外の支度は万端だから」

「ありがとう青嵐。気を付けてね」

「おう、ちゃんと値段を聞いてくるぜ」


 青嵐は手を上げて、門を出ていった。


 先日、青嵐はおそうざい食堂の移転先に心当たりがあるといっていたが、実際に役所でその物件についての張り紙を見つけたのだという。


 あのとき――おそうざい食堂の場所を華老師の家から他に移すことを考えている、と香織が話したとき、「心当たりがある」と青嵐が言ったのは、芭帝国からの難民がほろを張って生活している広い場所。建安の都の西にある。

 元は、国外からの商人の騎獣を休ませたり、隊商が野宿するための場所として使っている広場だ。


 王はその広場を、芭帝国難民の避難所として開放している。


 しかし最近、芭帝国に帰国したり呉陽国に住みついたりと、難民の数が急速に減っているらしい。これには、芭帝国と呉陽国の間で国境安全について会談が設けられていることが大きい。

 避難所の知り合いを青嵐が訪ねるたびに役人の姿を見かけたので、青嵐はピンときたのだという。


「あの広場は、しばらく空き地になると思うんだ。だから一時的に、おそうざい食堂の場所として借りたらどうだろう」

 青嵐はきのうの夜、そう言った。

「もし香織が特使の料理人になったらもっと評判が上がってもっとお客さんが増えるだろ? あの広場をとりあえず仮の店にしておけば、大きな店を建てる前に臨時の場所を確保できるし」


 華老師と小英も「それはいい!」と大賛成、よって青嵐はその算段を立てるため、出かけていったのだった。


「青嵐がいないとかなり大変だけど……明梓めいしたち古なじみのご近所にも助けてもらって、とにかく今日を乗り切るわ!」


 香織が襦のすそをたすきで括って野菜を洗いはじめると、開いている扉を叩く音がして顔を上げる。


「あなたは……」

「こんにちは。聖厨師せいちゅうし様のご飯を食べに、今日も来てしまいました」


 涼やかな笑顔を見せた長身は、芭帝国を拠点とする芸座の楽士、洸燕こうえんだ。


「青嵐君、だっけ? 彼はいないの?」


「あ、はい、ちょっと用事で出かけていて」

「そうですか」


 なぜか洸燕はうれしそうに言って、香織の隣にかがんだ。


「私も手伝いましょう。ほら、かして」

 香織が遠慮する間もなく、洸燕はサッと香織の手から野菜を取り、器用な手つきで泥を落としていく。


「上手ですね」

「はは、旅の芸座なのでね。食事係は持ち回り、炊事は慣れているんですよ」

「はあ……」


 思わず見惚れてしまうくらいの手際の良さだ。


(そういえば前に、耀藍ようらん様に野菜の洗い方を教えたことがあったっけ)

 洸燕の野菜を洗う大きな手が、耀藍の手と重なって見える。

 耀藍は不器用な手つきで何度も野菜を落っことして、泥をそろそろとなでているだけで全然野菜がきれいにならなくて。

(でも、そこには耀藍様らしいこだわりがあったのよね)

 決して野菜を傷付けないようにするために、耀藍はぶきっちょな手つきでそろそろと洗っていたのだとわかって、その繊細な優しさに胸がきゅんとなったのだ。


「……くさん、香織さん?」

「え? あ、はいっ」


 香織はぎょっとする。気が付くと、洸燕の顔が息がかかるほどに近い。


 その近い距離のまま、洸燕は赤い唇をほころばせた。

「あ、あの」

「近くで見るといっそう愛らしいな、貴女は。まるで王宮の庭に咲く姫薔薇のようだ。控えめなのに、一目見たら忘れられない姿——」


 洸燕の長い指が、そっと香織の髪を弄う。深い藍色の瞳は優しい鎖のように香織を捉えて動けなくする。

「――触れずにはいられない。貴女は、生まれながらの真の美女だ」

 耳にそっとかかる洸燕の声は、甘い吐息となって背筋に降りる。

 しかし女人をとろけさせるその吐息は、香織にとっては恐怖でしかなかった。


(ど、どうしよう……誰か助けて……!)


 逃げなくては、と思うのに、身体が動かない。何かの妖術にでもかかってしまったようだ。


 香織の髪を梳いていた指が、そっと香織の首元に滑り下りてきて、香織は思わず目をつぶった――。


「っつ!」

 洸燕がサッと手を引く。

 香織もその衝撃に思わずぱっと立ち上がった。


「な、何かしら……静電気???」

 洸燕の指が香織の肌に触れた瞬間、何かが弾けるような音と衝撃が走ったのだ。


「あ、あの、大丈夫ですか?」

「え、ええ」


 洸燕も毒気を抜かれたような顔で、引っこめた手を不思議そうに見ている。


「わ、わたし、ちょっと門の外を見てきますね! そろそろ明梓さんたちが来そうなので!」


(助かった……!)


 洸燕のあの眼差しとささやきにすっかり身動きできなくなっていた香織は、胸をなでおろす。

「それにしてもいったい何だったのかしら……あら?」


 しゃら、と耀藍からもらった首飾りが触れる。


「すごい熱を持っているわ」

 その熱さに驚いて取り出してみれば、さらに驚いたことに雫型の宝石の色が真っ赤になっている。


「たしか、宝石の色は青だったはず……耀藍様の瞳のような色」

 先刻の洸燕の接近を思い出し、香織はまさか、と思う。



「耀藍様……守ってくださったのですか?」



 香織は宝石をぎゅっと握りしめた。熱い宝石は、耀藍の手のひらの温かさを思い出させる。

 通りの向こうから、明梓が手を振ってやってくるのが見えた。


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