第百四十八話 おそうざい食堂の後で、それぞれは。


 夜の帳が下りた、建安の町。

 呉陽国一の繁華街は、まだ眠らない。赤、青、黄色の吊灯籠が幻想的に照らす目抜き通りには、買い物や食事、酒を楽しむ人々で賑わっている。

 そんな通りから、一本裏に入ったところ、建物と建物の間、野良猫やネズミしか通らないような路地に、若い男女が身を寄せ合っていた。 

 もし誰かが二人に気付いても、恋人同士がよろしくやっているのだろうと見て見ぬフリをして通り過ぎる。


「麗月の様子はどうだ。吉兆楼から連れ出せそうか」

 長身の男がささやいた。

「誘い出す隙がなくて困る」と女は溜息をつく。


 そんなやりとりも恋人の逢瀬に見えてしまうのは、二人が思わず振り返るような美男美女だからだろう。

 よく見れば、その美貌は同じ血を分けていることがわかるほど、よく似ているのだが。


麗月リーユエは作業をしていない時は誰かとしゃべっている。まかない飯に来た妓女とか禿かむろとかが、麗月の手が空くと話しかけてくるのよ。妓女がはけたら今度は辛好のばあさんと話したり一緒に作業している。付け入る隙がない」

「なるほどな」

「兄さんは?」

「ああ、今日、おそうざい食堂とやらに行ってきたんだが――」

「どうだった?」

「はやり、あの家から離れた場所でなくては連れ出すのは無理だ。店を手伝っている少年が意外と目端が利くから油断できないし、人の目が多すぎる」

「そう。意外だわ。麗月が料理ができるなんて。食堂は噂通り?」

「あ、ああ……」洸燕は少しためらってから言った。「正直……美味かったな、どの料理も。うん。文句のつけようがない」

「やっぱり?」 

「なんだ、冷葉も食べたのか」

「う、ん……まかないをね、少し。だって、食べろってすごい勧めるし」

 なぜか言い訳するように冷葉は言った。

「なんていうか……あの子の作る物、美味しかった。ただ美味しいっていうんじゃなくて、懐かしいっていうか」

「そうか」


 恋人ではなく美しき兄妹の洸燕と冷葉は、しばらく黙りこんだ。


「で、どうするの?」

 冷葉が、足元を睨んでぽつりと言う。


「そうだな。おまえが仕事中に連れ出せないなら、やはり吉兆楼の帰りが狙い目だろう」

「わかった」

「下弦の月の晩だ」

「もうすぐね」

「ああ。今夜にでも、我らは宋元様にお暇を申し上げておこう。そして、吉兆楼の近くに宿を取って潜伏する。冷葉は、引き続き吉兆楼で麗月を見張れ」

「わかったわ……ねえ、洸燕」

「なんだ?」

「あたしたち孤児でしょ? 親ってものも、家庭ってものも知らずに育った」

「そうだな」

 冷葉はややためらってから、言った。

「それなのに、麗月が作ったまかない飯食べて、あたし、懐かしいって思ったの。これが母の味なのかも、って……」

「そうか」

 洸燕は短く言って話を切り上げた。

 本当は、喉まで出かかった言葉をあわてて飲みこんだのだ。


(そう、私たちは親も家庭も知らない。故郷さえあやふやなんだ。それなのに……私も、麗月の作った料理を食べて、なぜだか故郷を思い出したんだ)


 そのモヤモヤとした疑問を吹っ切るように、洸燕は踵を返し、宋元の屋敷へと向かった。







 建安の王城、後宮。


「きーっ、なんなのよあの女!!」

 佳蓮かれんは卓子を埋め尽くす夕餉を見て、地団太を踏んだ。

「ご飯を見たら思い出しちゃったわよっ!!」


――美味しくてびっくりしてしまったから。


 という言葉は、佳蓮の矜持が心の奥底へ押しこんでしまっている。

 認めたくない。好敵手であろう女の作った物を「美味しい」と思ってしまったなどとは。


(おまけに……なんなのあの容姿はっ!)


 陽光を透かしたような色の薄い髪、異国風の整った顔立ちにすみれ色の瞳がよく映える。

 佳蓮が知りうる限り、美しいといっても差し支えない容貌だった。

 そして、華奢でたおやかな身体つきに、立ち居振る舞いの美しさは後宮の女官といっても差し支えがないほどだ。


 下町の娘など、さぞブサイクで田舎臭いだろうと馬鹿にしに行ったのに、返り討ちに遭った気分だ。


 あの『ミネストローネ』という汁物は、佳蓮の苦手なものを集めて煮込んだような代物だった。

 それなのに、胃の腑に染みわたるようなあの美味しさは何だったのか。

 そして、帰り際に持たされた『おにぎり』に至っては、米を固めるという発想が斬新で驚き、茶碗によそった米とは違う美味しさに驚き、思わず全部食べてしまったほどだ。


「佳蓮様、どうなさったのですか」


 おとが水差を持って部屋へ入ってきた。


「おや、ぜんぜん召し上がってないのですか。お身体によくありませんわ。まずは汁椀だけでも」

「そ、そうね。日中、下賤の食べ物を口にしたから身体が驚いてしまって」


 汁椀の蓋を取る。上品な出汁の香りがふわりと漂う。

 ああ、この汁があの赤い汁と同じくらい美味ならいいけれど――。


「――ってあたくしのバカーっ、ちがうわーっ!!」


 ばん、と卓子を叩いて立ち上がった佳蓮に乙は危うく椅子から転がり落ちそうになる。


「だ、だいじょうぶでございますか?」

「だいじょうぶじゃないわよぜんぜん!! 乙!! また明日行くわよ!!」

「まさか、あの食堂でございますか?」

「当たり前でしょっ! 手配なさい!」

「はあ、ですが」乙は困惑気味に言う。「どのような娘かはもうわかったことですし……佳蓮様がわざわざ足をお運びにならずとも」


 乙としては、再び危険を冒してまで佳蓮をお忍びさせるまでもない、と思っている。


「佳蓮様のお気持ちもわかりますが、耀藍様と佳蓮様のご結婚は揺るぎないもの。それよりも、婚礼前に怪我でもしたらそれこそ一大事でございますよ」


 しかし佳蓮は、可愛らしい顔を不敵に歪めてふふふ、と笑いを漏らす。


「やあね、乙。あたくしがタダ行くと思って?」

「と、いいますと?」

「御挨拶をしなくちゃ。王城へ来られる前、耀藍様とあの娘が恋仲だったのなら、妻としてをするのは当たり前でしょう?」


 にんまり笑んだ佳蓮を見て、乙もほくそ笑んだ。


「ああ、なるほど。でございますね、佳蓮様」

「そう、御挨拶。ちょっとだけよ。耀藍様にふさわしいのはあたくしだと知らしめるために、ね」

「知らしめてやりましょう佳蓮様」

「ふふふ」

「ほほほ」


 豪奢な室内に、主従の仄暗い笑いが響いた。


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