第百四十七話 耀藍はお疲れです


 街路樹の大きな柳が、溜息をついた。

 いや、正確には柳の木にずっと隠れている男が、なのだが。


香織こうしょく……元気そうでよかった」


 大げさに両手で顔を覆っているのは、もちろん耀藍ようらんである。


 鴻樹こうきがおそうざい食堂の行列に並んで入っていくまでの間、何度か香織が門の外に姿を見せた。

 久しぶりに見る、あの温かくほんわかした笑顔。華奢な後ろ姿を目で追えば、腕に抱きしめた感触がありありと蘇る。

「うう、目の前にいるのに……いや耐えろオレ! 行ってはいかん!」

 飛び出したくなる自分を全力で押さえていたため、耀藍はただここで隠れていただけなのに汗だく、精魂尽き果てている。


「それにしても鴻樹、遅いな。もしかして、出てきたところを見過ごしたか?」

 一人ぶつぶつ言っていた耀藍は小腹満たしに干し棗を食べていて——危うくその袋を落としそうになった。


「香織……と、鴻樹?!」


 門から出てきた香織の後ろから、鴻樹が走ってきて追いついた。

 二人は何やら話し、並んで歩いていく。


「鴻樹っ、どういうつもりだ?!」


 慌てて耀藍も追いかける。

 もちろん街路樹から街路樹へ、飛び移るように身を隠すことも忘れない。


「この時間だ、香織は吉兆楼に行くのだろう……で、なぜ鴻樹がついていく?! ああっ、あんなに近付いて……!」


 端から見れば、肩を並べて微笑み合う二人は、仲睦まじい恋人同士に見える。


「うううっ、何を話しているんだ……き、気になる!!」


 耀藍の耳がひくり、と動く。無意識に、異能・天耳通てんにつうを使っていた。





「働き者ですね、香織さんは」

「い、いえ、そんなことは」

「それに謙虚だ。あんなに料理の腕が素晴らしいのに、まったく奢るとろこがなくて。本当に美味しくて、久しぶりに食べ過ぎました」

「そんなふうに言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます」

「香織さんの料理は不思議ですね」

「……不思議?」

「あの無料で配布された『みねすとろーね』という汁物も、おにぎりという米をかためた物も、そして忘れもしないあの! 極上なまろやかさがたまらない『まよねーず』も、すべて呉陽国では見ない料理だ。包子でさえ、中身の肉餡も小豆餡もこの国の物とは違う。失礼だが、いずれの国のご出身で?」

「あ……えっと」

「……すみません。立ち入ったことを聞きました。では聞き方を変えましょう。どちらで料理を習ったのですか?」

「な、習ったというか……独学で」

「独学?! 御自身で編み出したんですか? さっきのお惣菜の数々を?」

「え、ええ、もちろん、人に知恵を借りるっていうか……COOKPOT、いえ、ええとなんていうか、本? 料理の作り方が書いてある本のような物を見たりですとか、そこに自分の案を足してみたりとか」

「すごい……あれだけの目新しい料理を、指南書と自分の知恵だけで作るなんて!」





「あっ、鴻樹め手など握るなっ」

 思わずツッコんだ拍子に集中力が切れ、天耳通てんにつうが作用しなくなる。


 すでに東西南北の目抜き通りが交差する広場に来ていた。香織は吉兆楼へと東へ曲がるのだが、立ち止まった二人はまだ何か話している。

 鴻樹が香織の手を握って、握り続けて、しきりに何かを言っている。


「早く手を放すのだ鴻樹っ、くそうっ、王城に着いたら後ろから膝カックンしてやるからなっ!!」


 という耀藍の幼稚な罵声が聞こえたのか(聞こえるわけはないのだが)、頭を下げて立ち去る香織に鴻樹はずっと手を振っていた。





「ただいま戻りました—―って、耀藍殿!」


 王の執務室にやってきた鴻樹は、意外そうな声を上げた。

「すみませんね、ぜんぜん姿を見せてくれないから、私は私で仕事をしましたけど……あれからどこへ行ってたんです? まさかずっと柳の木の下でいじけてたんですか?」

「……べつに」

「ていうか、どうしたんです? そんなに疲れた顔をなさって。下町の悪童にいじめられましたか?」


 応接用の長椅子にぐったりを座る耀藍は、なぜか疲労困憊している。


 亮賢りょうけんが執務卓で楽しそうに笑った。

「そうなんだよ、なんか耀藍、すっごい疲れててさ。対照的だね。鴻樹は生気に満ちてるっていうか、顔色がずいぶんいいよ。なんかいいことあった?」

「はい。久しぶりに、とても美味しい幸福をいただきました」

「へえ、美味しい幸福?」

「あの香織という人物、なかなかの料理人ですよ、亮賢様」


 執務卓の上に、亮賢は薬包を置いた。


「なんと偶然にも、香織殿が営むおそうざい食堂は、華老師かせんせいのお宅にあったのです」

「へえ?」

「なので仕事はいっぺんに済みました。これが御所望の風邪薬です」

「ご苦労だったね。で、香織という人物は?」

「はい、それがかなり美しい娘でして。亮賢様の後宮へ国中から若い女性を召し上げたときに、役人の目に留まらなかったのが不思議で――というか、あの器量が目に留まらないはずはない。そこに何か事情があるようでして」

「事情?」

「香織殿は、自分の出身や身の上をどうも隠しているようでした。まあ、特使の料理人に選ばれれば調べることですので、今日のところは深堀りしませんでしたが」

「ふうん、秘密を抱えた美少女が作る料理って、なんだか神秘的だね。で、味のほうは?」


 鴻樹はどうだ、と言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。


「さっき、亮賢様もおっしゃったでしょう。私の顔色が良いと。これが御答えです。文句のつけようがない料理でした。味はもちろん、食べやすさや盛り付けから、食べる者への配慮にあふれています。目新しくもあった。あれを一人で作っている彼女の力量と人柄にも感嘆しました。おそうざい食堂が人気があるのも頷けますし、私、彼女のことがすっかり気に入ってしまいました」


 そのとき、長椅子からむくりと耀藍が起き上がった。

「鴻樹っ、い、いかんぞそれは! オレはそなたを友と思っているのだっ!」

「へ?」

「なんだよ、急にどうしたんだ耀藍? 夢でも見たかい?」

「あ……」

 不思議そうな二人の顔を交互に見て、耀藍はバツが悪そうに再び長椅子に沈む。 


「まあ、そんなわけでして。会談の料理は野外で供されることを考えても、私は楊氏の推している『桃源』の主よりも彼女が特使の料理人には適任だと思いましたね」

「へえ……鴻樹がそんなに言うんじゃ、余も食べてみたいな、その香織殿の料理を。ていうか、耀藍はおそうざい食堂で食べてこなかったの? なんで?」


 亮賢と鴻樹が、再び不思議そうに耀藍へ向いた。

 耀藍は長椅子にぐったりと身を預けて天井を睨んでいる。


「くそうっ……人の気も知らないでっ」

「え? なんか言った耀藍?」

「なんでもないっ。腹が減った! なんか食わせてくれ亮賢!」


 珍しく声の荒い耀藍に、亮賢と鴻樹は顔を見合わせた。

「はいはい、王使いの荒い耀藍だなあ、もう。君くらいだよ、余に向かってなんか食わせろとかこどもみたいなこと言うのは」


 亮賢は苦笑して、執務卓の上の鈴を鳴らした。

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