第百四十六話 幸せな満腹感
「しまった、つい食べ過ぎてしまった……」
「久しぶりだな、こんなに腹いっぱい食べたのは」
腹が苦しいのだが、「食べた!」というこの満足感。それは、王の宰相になってから久しく鴻樹が忘れていた感覚だった。
宰相は臣下の最高位。王城の敷地内に邸も与えられているし、もちろん一日三食、卓子を埋め尽くすほどの皿が並ぶ豪勢な食事が出てくる。
それらはもちろん宮廷料理人が作る最高に美味しい料理だ。
しかし、鴻樹が今感じているような満腹感には至らない。
それはどこか義務的で、よそよそしい満腹感なのだ。
今日、この食堂で食べた料理の方がずっと質素なのに、「ああ食べたなあ。幸せだなあ」という気持ちで身体が満たされていた。
満腹で幸せ、というこの感覚。
最近忘れかけていた、けれどもとても心地よいこの感覚に、鴻樹はすっかり浸っていた。
「あの……」
心地よく庭の木々を見上げていると、あの
「もう食堂は終わりで、片付けていますけど……もう少しゆっくりされてもだいじょうぶなので」
見ればあの異国風の浅黒い少年が長卓子や椅子を奥へ運んでいる。いつの間にか鴻樹の他には
「手伝いましょう」
鴻樹は立ち上がると、椅子を手に持った。
「そんな! わたしたちでやるので、いいですから!」
「美味しい料理を銅貨一枚で食べさせてもらったお礼ですよ。それに、美味しくてつい食べ過ぎたので腹ごなしに」
鴻樹は笑って辺りの椅子を幾つも手に持つ。
「それにね、私は貧乏性なもので。周囲に働いている人がいるのに自分だけどっかり座っているのはどうも居心地が悪くてね」
「す、すみません、ありがとうございます」
「助かります、ありがとうございます」
香織も
(あんなに美味しい料理を作って、人々からも慕われているようなのに……とても謙虚な人物だな)
鴻樹は、香織に対して好感を持った。
(この若さでたいしたものだ。さすが、聖厨師と呼ばれ、周氏が推すだけのことはあるのかもしれない)
「さ、運びます。どこへ持っていけば?」
「じゃあ、こちらへ」
鴻樹は一緒に庭院の奥へ椅子を運びながら、香織を観察する。
(それに……下町に住んでいるのが不思議なほど、かなり美しい娘だ。
「あの、失礼だが、あなたは華老師の娘さんかお孫さんで?」
「いえ、そんな。わたしは……」
なぜか香織は言葉に詰まった。
(何か事情があるのかもしれないな)
その辺りは、正式に特使の料理人に選抜されてからでも調べられる。鴻樹は話を変えた。
「華老師は、そろそろお戻りですか?」
「え? ええ、たぶんもう少しでお帰りになると思いますが」
「そうですか。私は、実は華老師から風邪薬を処方していただきたくて」
「そうだったんですね。――あ、噂をすれば」
そのとき、白い髯の老人と、14、5歳ほどの少年が門をくぐってきた。
「ただいま香織、って、お客さん?」
「あ、
「こ、鴻藍といいます!」
とっさに偽名を名乗る。
「風邪薬を処方していただきたくてお待ちしておりました!」
「ほう、そうですか。そりゃお待たせしてすみませんでしたな」
「いえいえ! おかげで美味しい料理をたくさん食べられました!」
これは本心からの言葉だ。
「鴻藍さん、おそうざい食堂の料理食べたのか?美味かっただろ?」
「うん、こんなに腹が満たされたのは久しぶりだよ」
小英という少年は胸を張る。
「だろ? 香織の料理は最高だからな!」
一つだけ残された長卓子に小英と華老師が座ると、香織が料理を運んできた。彼らの昼食らしい。
「ところで鴻藍さん、風邪薬ということじゃったが、貴方が飲むのかのう?」
「いえ、私ではなく、私の……その、友が」
チラ、と門の外に目をやるが、
仕方なく鴻樹は薬代の袋を卓子に置いて、頭を下げた。
「少々事情がありまして、私が代理で薬をいただきたいのですが」
「それはかまいませんが、ご友人は熱でも? ここへ来られないほど具合が悪いのですかな?」
「いえ! 熱なんて無いです。なんというか……基本、仕事もしておりますし元気なんですが、会話中によくお茶を吹き出すんです。本人いわく、むせるらしくて」
「咳で茶を吹き出す、と。食欲は?」
「はあ、それが細いくせにすごい大食漢で。あ、でも、王……ごほん、もう一人の友人によると、それでもいつもより食べる量も減っているとか」
「はあ、ご友人は少しお疲れなのかもしれませんな」
よっこらしょ、と華老師は立ち上がり、家の中へ入ると、間もなく戻ってきた。
「この薬を試してみてくだされ」
「えっ、こんなにたくさん……ではお代をもっと」
財布を出そうとした鴻樹の手を押しとどめて華老師が笑った。
「お代はけっこうですぞ。この薬は、少し前までうちに入り浸っておった大食漢がたまに飲んでいた薬でしてな。その男はもう、ここには来ないので——この薬を飲む者もおらんのです」
なぜか華老師はいったん言葉を切った。
家へ入ってしまった香織を気にしているようだ。
「――まあ、そんなわけですので、どうぞお持ちくだされ」
「申しわけない。恐縮です」
鴻樹が薬を懐にしまっていると、香織が出てきた。
「では華老師、小英、ゆっくり食べてくださいね。いってきます」
「おお、香織、気を付けるのじゃよ」
「いってらっしゃい、香織!」
香織は鴻樹にも頭を下げて出ていった。
「あの、香織さんはどちらへ?」
「おお、あの子は吉兆楼の厨の手伝いに行っとりましてな」
吉兆楼といえば、建安一の妓楼ではないか。
(ここで食堂を営むだけでなく、最高級妓楼でも働いているのか。しかもあの器量で妓女ではなく、厨で働くとは)
鴻樹の役人としての勘が、あの美少女ともう少し話したい、と告げていた。
有能な人物とはじっくり話したくなる。それは鴻樹を若くして宰相の地位にまで押し上げた政治的勘の一つだ。
「華老師、お薬どうもありがとうございました!」
鴻樹は華老師と小英に丁寧に頭を下げると、急いで香織を追いかけた。
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