第百四十五話 佳蓮と香織


 赤い汁を一口、佳蓮は飲んだ。


「か、佳蓮様…?」

 乙がおそるおそる覗きこむ。

 愛らしい主の顔は固まっている。


「どうされたのですかっ、あまりの不味さに身動きが…?!お水をお待ちしますわっ!」


 人をかき分け水を求めに行った乙を、佳蓮は呆然と見送った。


(お、美味しすぎるわ……!)


 佳蓮が空腹ということを差し引いてあまりある美味しさだ。


(この汁の味はトマトよね?で、入っている具材は人参に玉ねぎに……これは豚肉よね?どれもあたくしが苦手であるはずなのに、どうして美味しいの?!)


 混乱する頭にとある可能性が浮かんで、佳蓮は急いで周囲を見る。

 さっきの異国風の少年が賑わう長卓士の間を行き来している。他に店員らしき者はいない。

(ま、まさか)

「ちょ、ちょっと! そこのあなた!」


 浅黒い少年が振り返る。


「なんだ、あんたか。まだいたのか」

「し、失礼なっ……いいえっ、それよりも!ここのお料理を作っているのはどなたですの? まさか貴方?」


 少年はぷっと笑った。


「そんなわけないだろ。ここの料理は全部、香織が作ってんだ」

「香織……?」

「なんだあんた、知らないのか。聖厨師・香織だよ。その評判を聞いてここへ来たんじゃ––––」

「どこ?! その香織とやらはどこにいるのっ?!」

「はあ?」

「すぐにっ、今すぐに香織とやらをここへ呼びなさいっ!」




「佳蓮様……いったい何がしたいんだ」

 騒ぎ出した佳蓮に鴻樹は頭を抱えた。


 ここは賑やかで皆それぞれに食事を楽しんでおり、佳蓮が騒いだとて気にする者もいなそうだが、何かの弾みで王女であることがバレたら厄介なことになる。


「乙がついているはずだが、見当たらないな。厠か?」


 鴻樹は大きく溜め息をつく。居合わせたのも運の尽き、大騒ぎになる前についでに佳蓮を回収しよう––––。


 鴻樹が腰を浮かせたとき、目の前に湯気上がる汁椀が置かれた。


「冷めないうちにどうぞ。今日の汁椀はミネストローネです」

「あ……」


 赤い汁に驚き、湯気の芳しさに食欲をそそられ、目の前で微笑む少女の美しさに息を飲み、鴻樹は上げかけた腰を下ろした。


「い、いただきます」

 箸を取り、汁椀に口を付ける。


「……美味い!」

 思わず言葉が、口をついて出ていた。

「それはよかったです」


 少女はにっこりと微笑んだ。見惚れてしまうような、ふわりととろけるような微笑みだ。


「他のお惣菜もゆっくり召し上がってくださいね。わたし、あちらのお客様がお呼びのようなので、行きます」


 ぺこりと頭を下げて、少女は騒いでいる佳蓮の方へ歩いていった。


「美味い。野菜の旨みと肉の旨みをトマトの味がよくまとめている。具材のいろいろな食感が食べていて楽しい。美味すぎるだろこれは」


 ぶつぶつ言いながら、鴻樹はあっという間に汁椀を空にした。


「他の料理も楽しみだな……ん?」


 そこで鴻樹はふと思う。


「確か、ここは華老師の家でもあり、おそうざい食堂でもあるんだよな……?てことは、今の綺麗な子が聖厨師・香織???」





 人々に囲まれて、旅の話を披露していた洸燕は、向こうの卓士にいる男に目を溜めた。


(あれは……新しい王の側近で宰相の、李鴻樹だ)


 新進気鋭の宰相だと、宗元が話していた。

 宗元が王城に商品を納めに行った際、直接品を改めている姿が印象的だったので覚えていた。


(たしか、李鴻樹は芭帝国との国境安全交渉の特使に任ぜられ、忙しいはず……こんなところで何をしているんだ)


 首をひねりつつ、洸燕は腰を上げる。

 呉陽国の要人である李鴻樹に、こちらの動きを勘付かれては困る。洸燕の顔が知れるのもまずい。


(麗月とも接触できたし、様子もわかった。今日のところは退散だな)


 間諜の任務は、引き際が大事だ。


「あれっ、洸燕もう帰っちまうのかい」

「ああ、また明日も来るよ。これを香織に渡してくれ」


(銅貨一枚でこれだけの料理を提供するなんて、ただの美姫じゃない。異次元な思考の持ち主だし、たいした料理の腕前だ。皇太子殿下がご執着するのは、その辺りなのかもしれんな)


 隣の職人風の男に銅貨を渡し、洸燕は席を立った。





「あの……」


 青嵐と今にもつかみ合いになりそうな華奢な客に声をかける。


「私が料理人の香織です。何か、お料理に不都合がありましたか……?」


 客が振り返った。


(まあ、なんて可愛らしいお客様でしょう!)


 赤い絹の頭巾の下から、大きな双眸がきらめいている。

 その双眸がハッと驚きに瞬いたかと思ったら、花びらのような唇がなぜか悔しそうに引き結ばれた後、

「まずい!」

 と叫んだ。

「ま、不味いのよ!この汁物!こんなものをお金取って食べさせようとするなんて、この食堂の主は何を考えているのかと思ったら、貴女みたいな小娘だなんてね!」


 周囲の人々はぽかん、とその可愛らしい少女を見つめる。


 この中に一人として、香織の料理を不味いと思っている者はいないし、

(そう言う貴女も小娘では……?)

 と全員が思った。


「申し訳ありません、お口に合わなかったのですね」

「そ、そうよ!合わなさすぎよ!ていうか貴女、名前はっ?」

「はい、香織と申します」

「変な名前ねっ! とにかくっ、貴女なんかよりあたくしの方がふさわしくってよ!!」

「ふさわしい……?」


 少女の言っていることの意味はわからないが、香織は青嵐が運んできてくれたおにぎりをお皿から竹の皮でそのまま包み、立ち去ろうとする少女に渡した。


「よかったらこれ、持ち帰って召し上がってください。お代はけっこうなので」

「ふ、ふんっ、当たり前でしょっ、お金なんか払わないわよっ、あ、あんな……不味い料理にっ!」


 そういいつつも、しっかり竹皮の包みを手に、謎の美少女は去って行った。その後を、野ネズミのような小さい女性がちょこちょこと追いかけて行った。


「無銭飲食が目的、って感じでもないけど、なんかいちいちすげームカつく奴だよな」

 呆れ顔で青嵐が言う。

「そうね……」

 香織も首を傾げた。


 前世の主婦の勘が告げている。あの少女は料理ではなく、香織が気に入らないのだろう、と。


(でもなぜ……? わたしは、あの子を知らないわ……。あっ、もしかして)


『麗月』の知り合いなのかもしれない。


(また来てくれるかしら。話してみたいわ。麗月のことを知る手掛かりになるかもしれない)


「青嵐、あのお客様がまた来たら、知らせてくれる?」

「いいけど、あの女、きっとどこかの気まぐれな金持ちだよ。香織が気にすることないって」

「ありがとう、青嵐。今お渡ししたおにぎりの感想も聞きたいし、ね?」

「香織がそう言うなら……あ、いらっしゃい!」


 まだまだやってくる今日のお客さんに対応するべく、香織と青嵐はそれぞれの持ち場に戻った。



––––一連の出来事を観察していた鴻樹は、

「佳蓮様、いったいなにをしに来たんだ……?それにしてもこの包子、絶品だな。皮がフワっとしてモチっとして、肉汁がじゅわっとあふれて……むぐ?! この蒸し野菜に添えられた白い物体はなんだ?! 美味いっ、美味すぎる!」

と、夢中でおそうざい食堂の料理に舌鼓を打ち続ける。


 鴻樹がここへ来た本来の目的を思い出すのは、すっかり食事が終わってからだった。

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