第百四十四話 おそうざい食堂に集う者たち③



「なんだか、すごくいい匂いがするわ」

 列に並んですぐ、佳蓮は鼻をすんすんさせた。

「これは……炊きたてのご飯の匂いね?」


 ぐううううう。

 おとより前に佳蓮の腹の虫が答えた。


「やだっ、あたくしったらはしたないわっ」

「ほら、ですから朝ごはんをしっかり召し上がってくださいと申しましたのに」

「だってぇ……あたくしが野菜やお肉が嫌いなのはわかってるでしょ。なのに、お粥に入っていたのよ。食べられるはずないじゃない!」

「佳蓮様は白米しかまともに召し上がらないので、野菜と肉もいっそ白米に混ぜなさいと私が厨に指示したのですよ」

「ええっ、なんてことするのよ乙! こんなにお腹が空いちゃったのは乙のせいじゃない!」

「いいえ。ちゃんと召し上がらない佳蓮様の責任ですよ」


 乙は野ネズミのように小さい身体を大きく逸らしてぴしゃりと言った。


「佳蓮様はこれから耀藍様の妻となり、御子をお生みになる大切な御身。今までのように好き嫌いをなさっていてはいけません!」

「妻……は、母!」

 佳蓮は顔を真っ赤に染めた。

「耀藍様の、み、みみみ御子を……」

「ええ。母体にはたくさんの栄養が必要ですし、そもそもしっかりしたお身体にならなくては御子を身籠ることもできませんよ」

「やだっ、乙ったら身籠るなんて卑猥なことをっ」

「何が卑猥ですか! これからはきちんと、朝餉を召し上がっていただかないと!」


 お忍び主従が謎の押し問答をしているうちに列は進み、佳蓮は古びた門をくぐった。


「な、なんですの、ここは……」


 そこには、佳蓮が初めて見る光景が広がっていた。


 決して広いとは言えない庭院に、所せましと長卓子が並んでいる。

 その長卓子を囲んで、たくさんの老若男女が楽しそうに会話をしながら、何やら汁椀を食べている。


「あんたがた、遠方から来たのかい」

 近くにいた大工らしき男が話しかけてきた。

「え、ええ」

「空いてる席にどこでも座っていいんだぜ。ほら、そことか空いてる」

 大工が指した場所に乙と二人おそるおそる座ると、すぐに目の前に湯気を上げる椀が置かれた。

「な、なんですの?! あたくしまだ何も注文していないですわ!」

 庶民の食堂というのは『品書き』から献立を選び、注文するものらしいという知識を、佳蓮はお忍びのために仕入れていたのだ。


「これは今日の汁椀で、無料なんです。お客さん全員に配っているので」

 汁椀を持ってきた少年が言う。不愛想だが、浅黒い異国風の外見が好印象だ。

「そうなの?」

「ちなみに、注文もないんです。今日の献立は決まっていて、座ったらみんなと同じ献立が出てきます」

「な、なんですって?! 選べないというの?!」

「嫌なら帰ってくれて大丈夫です。ちなみに今日の献立は肉餡の包子、かつお節のおにぎり、唐揚げ、茹で野菜のマヨネーズ添えです。料金は銅貨一枚」


 少年は怒っているでもなく、淡々と説明して別の客のところへ行ってしまった。

「あっ、ちょ、ちょっとお待ちなさい!」


 しかしごった返す庭院の中、忙しそうに動き回っている少年には聞こえなかったようだ。


「どうします佳蓮様? ひとまずここを出て、どこか落ち着ける場所でお食事を召し上がっても」

 汁椀をじっと睨んでいた佳蓮が言った。

「いいえ、あたくし、ここでいただくわ」

「よ、よろしいんですか?」

「耀藍様をたぶらかしている娘を見つけてないし、庶民の食事にも興味があるわっ」

「はあ……ですが、よろしいので? さっそく運ばれたこの無料とかいう汁椀からして、佳蓮様のお口に合うかどうか」


 乙は不安げに汁椀をのぞきこむ。

 真っ赤な汁に、人参や玉ねぎ、キノコやその他野菜らしきモノが細かく刻まれて浮かんでいる。肉の角切りも見える。


「はっきり申しまして、佳蓮様のお嫌いな物の集合体かと」

「い、いいのっ。食べてみるわっ。これも耀藍様の妻となるための社会勉強よっ!」


 佳蓮は思い切って、汁椀に口を付けた。






「――この辺りのはずだが」

 それは建安の南、いわゆる庶民が軒を連ねる下町。

「すみません、華老師のお宅はどちらでしょうか」

「ああ、その角を曲がった、瓦屋根の門の家だよ。もしかしてあれかい、兄さんもおそうざい食堂が目当てかい?」

「え? ええ、まあ」

「じゃあ急ぐことだね。早く行かないと、今日のふるまい椀が終わっちまうよ」

 職人らしき男は笑って荷車を引いていった。

「どういうことだ? 華老師宅を訊ねたら、おそうざい食堂を言われるとは」

 若き宰相・李鴻樹は道端で首を傾げる。

「おそうざい食堂にも行くつもりだが、私は一言もおそうざい食堂のことは言ってないのに……不思議だ」

 そして、後ろを振り返った。

「ていうか、いい加減、ちゃんと道案内をしてください。耀藍殿がきちんと案内してくれればすべて解決するんですが」


 街路樹の影に幽鬼のように隠れている耀藍を見て、鴻樹は溜息をつく。


「協力する気ゼロですか。まあいいでしょう。なんでそんなに華老師のお宅へ行くのがイヤなのか知りませんが、耀藍殿の風邪の薬をいただいてくるよう、私は王から仰せつかっているので」


 鴻樹がさっさと辻の角へ向かう後ろ姿に耀藍は叫ぶ。


「ち、ちがうのだ鴻樹! そなたに協力しないわけではなくて! こ、心の準備がっ」

「小さいこどもじゃあるまいし、薬をいただきに行くのに何が心の準備ですか。この後、香織こうしょくという人物の営む食堂にも行かなきゃならないんですよ? 幸い、華老師のお宅とおそうざい食堂は近いようですけど、日が暮れる前に王城へ戻りたいので——」


 言いながら角を曲がった鴻樹は、立ち止まった。

「なんだ、あれは」

 とある家の門前に行列ができている。鴻樹は目をこする。瓦屋根の門。見間違いでなければ、行列は華老師の家へ入っていく。

 賑わう人々、漂ってくる美味しそうな匂い。

「これは……医師の家というより、食堂じゃないか」


 後ろを見れば、耀藍は怯える小動物のように街路樹の影から出てこない。


「……とりあえず耀藍殿は放っておこう」

 鴻樹は行列に近付き、並んでいる人々に声をかけた。

「あの、ここは医師の華老師かせんせいのお宅ですか?」

「ああ、そうだよ」

 近所の人らしき子連れの女たちが鴻樹の深衣を上から下まで眺めた。

「あんた、どっかのお金持ち? おそうざい食堂の評判を聞いてきたの?」

「いえ……いや、おそうざい食堂にも行きたいのですが、私は華老師にお薬をいただきたくて」

 女たちは楽しそうに笑った。

「やだね、どっちも一緒だから」

「一緒?」

「だからあ、華老師の家がおそうざい食堂なんだからってこと」


 鴻樹は目をしばたく。


「そうなんですか?」

「そうさ。あ、でも、華老師は今いらっしゃらないよ。昼までは小英と往診に出ているからね」

 列が進み、女たちが門の中に入るのと一緒に、鴻樹も中へ入っていた。

「あんた、おそうざい食堂にも来たんなら、先に食べて華老師を待ってたら?」

「え? ええ、はあ」


 庶民の家の庭院にしては少し広めの空間に、長卓子がたくさん並んでいて、人々が楽しそうに食事をしている。

 その賑やかな雰囲気に呑まれて思わず近くの椅子に座った鴻樹は、庭院の隅にハッと目を留めた。


「あれは……佳蓮様?!」


 赤い頭巾を被って汁椀を両手に持っている少女。

 あれはまちがいなく、王の妹で耀藍の婚約者、佳蓮だ。



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