第百四十三話 おそうざい食堂に集う者たち②
今日のふるまい椀は、ミネストローネ。
香織は、ピザまん用のトマトソースを作るのにケチャップから作るため、市場でトマトを大量に仕入れていた。
呉陽国にも四季はあるが一年を通して温暖な気候らしい。トマトは、年中手に入るということだった。しかも質が良い。今はおそらく、秋にあたる季節のようだが、どのトマトも赤く、みずみずしく、甘い。
前世で言えば、デパ地下で売っているトマトと同じくらいのクオリティだ。
「切れ端、捨てるのがもったいないくらい美味しいトマトなのよね」
だからミネストローネを思いついた。トマトソースやケチャップを作るときに出るトマトの切れ端は、全部合わせるとけっこうな量になる。
トマトの切れ端と完成しているトマトソース、一センチ角に刻んだ人参なのどの野菜、それと塩豚バラを角切りにしたものを、弱めの火でよく炒めていく。
「ベーコンがほしいけど、市場にはないのよね」
そこで前世によく作っていた塩豚バラを作ってみた。
ベーコンほど日持ちはしないが、よく塩をすりこんでおくと他の肉よりも日持ちがするし、味にも深みが出る。そのまま調味料として野菜炒めに使ったりチャーハンに入れたりと重宝するため、豚バラが特売の時はよく作ったものだ。
この世界にはコンソメ顆粒がないので、昆布やかつお節で取った出汁を使うが、塩豚バラを使うと良い油が出てちょっとコンソメに近付く気もする。
赤い小皿に取って味をみて、
「でもやっぱり、ベーコンがいいわよね。燻製にできるといいのかしら。でも、ベーコンってどうやって作るんだっけ」
前世でキャンプに行ったときに作ったような記憶もあるが、おぼろげだ。
「そもそも燻製って、どういう設備で作れるんだったっけ? うーん、こういうときスマホがあればなぁ……って、あの声は
明梓の元気な声が、門の外にやってきた気がした。
「ていうことは、もう食堂が始まる時間だわ!」
青嵐がいないのでつい調理に没頭してしまったが、明梓が来たということはもう人が集まり始める時間だ。
香織があわてて準備をしようとしたとき、
「香織ー! ちょいと話せるかい!」
厨にひょい、と明梓の顔がのぞいた。
「明梓さん、おはようございます! どうしたんですか?」
「お客さんだよ。とびきりのイイ男でねえ」
明梓に手を引かれて外へ出ると、
「すげー! お兄さん、どうやってやったんだよ、それ!」
「魔術みたい!」
「そんなに喜んでもらえるとはうれしいね。はい、では、これは君たちにあげよう」
男は何もない手のひらをにぎって、ぱっと開く。そこには、いつの間にか干し棗が二つ、握られていた。
「まただ! すげー!」
「ありがとう、お兄さん!」
棗を受け取ると、二人はうれしそうに
「すごいねえ、手品かい?」
明梓も目を丸くしている。目の前で涼やかに微笑む男に、香織は見覚えがあった。
「あの、失礼ですけど、吉兆楼でお会いしましたか……?」
黒髪をきっちり結い、涼やかな薄墨色の瞳と紅をのせたような唇が精悍な顔立ちの中で際立つ。
「では貴女は、あのときの舞姫!」
男は香織に近付くと、かがみこんで顔を近付けてきた。
「あ、あの」
「やっぱりそうだ! 香織さんですね? あの時も綺麗な人だと思ったが、化粧をしてなくてもさらに美しい!」
大きな手が香織の手をしっかりと握った。
「私は
「なんだい、知り合いかい?」
明梓がからかうように香織を肘でつついた。
「え、ええ……少し前に吉兆楼の留守番のときに、素晴らしい
「へえっ、手品に楽に、芸達者だねえ」
洸燕は控えめに頷く。
「私は芭帝国を拠点にする芸座の一員なんです。今は、大商人・宋元様に気に入っていただいて、期間限定で食客として宋家に滞在させていただいております」
「あの、どうしてここへ?」
香織がおそるおそる聞くと、洸燕は香織の手をさらにぎゅっと握りしめた。
「決まってるじゃないですか! うわさの食堂でご飯を食べるためですよ!」
「そ、そうですか」
(て、手が……手を放してほしいわ)
しかしなんと、洸燕はそのまま香織の手を引き寄せ、手の甲に唇を付けた。
「なっ……!」
突然のことに香織が硬直するのを気にも留めず、洸燕はにっこりと笑った。
「いやあ、うれしいなあ。建安に滞在中に一度は食べてみたいと思っていた聖厨師の料理が、香織さんの手料理なんて!」
「あ、ああありがとうございます、すぐにっ、準備しますねっ」
香織はするっと洸燕の手をほどき、厨へ戻った。
(び、びっくりした……)
いきなりのことで心臓がドキドキしているのを押さえていると、青嵐が戻ってきた。
「ただいま香織! なあ、外で明梓さんと話している男、誰?」
「あ、おかえり青嵐。あの方はね、ええっと、洸燕様といって……お客様なの」
「ふうん。なんか、みょうに色っぽい美形だな」
「芸座の芸人さんなんですって。青嵐、帰ったばかりで悪いけど、準備手伝ってもらっていい?」
「おう、もちろん」
青嵐と香織が椅子や長卓子を出していると、洸燕がすかさずやってきた。
「手伝いますよ」
「いえ! お客様にそんな」
「いいよ、あんた客なんだろ」
じろりと青嵐が睨むが、洸燕は気にした様子もなく屈託なく笑う。
「二人より三人でやった方が速いですよ。『
青嵐が目を瞠る。
「あんた芭帝国語が喋れるのか?!」
「私は各地を回る芸人だが、もともとは芭帝国人だからね。君も芭帝国人かなって思って。たぶん、その色浅黒く彫の深い顔立ちは南方の出身だろう?」
「よ、よくわかったな。あんたは? あんたはどの辺の出身?」
最初は洸燕を警戒していたらしい青嵐は、開店準備をする間にすっかり洸燕と仲良くなっていた。
普段、口数がそんなに多くない青嵐が、声を上げて笑っている。
「香織、あの人、すごく良い人だな!」
食堂に人がぞくぞくと訪れて、本日のふるまい椀をどんどんよそって運び出しながら、青嵐が厨で興奮気味に話す。
「おまけに、身のこなしがすごいんだよ。サッとやってくれて、仕事が正確なんだ。同じ大男でも耀藍様なんか、手伝うって言ってこぼすわ落とすわ、俺の仕事が増えるばっかりで——」
耀藍の名を出したことに、青嵐はハッと口をつぐんだ。
「ご、ごめん香織」
「え? どうしたの青嵐? 今、揚げ物の音で聞こえなかったよー」
のんびりとした返事に、青嵐はホッとしたように笑った。
「と、とにかくさ、洸燕さん、話が面白くて、近所の人たちも食べながら話に聞き入ってるよ! だから揚げ物、時間かかってもだいじょうぶだからな!」
青嵐はそう言って、外へもどっていった。
「……そうね。確かに、耀藍様は手伝いが手伝いになってなかったよね」
香織は苦笑する。
見事に皿をひっくり返し、卓子を拭いているつもりが散らかっていき、それはもう見ているだけで思わず笑ってしまいそうになるダメっぷりだった。
「その度に一緒に片付けて、わたしの小言に耀藍様がひたすら謝っていたっけ……」
ほんの少し前のことなのに、こんなにも懐かしくて愛おしい記憶。
襲ってくる痛みに耐えようと、胸に手をあてると、衣越しにしゃら、と何かが手に触れた。
「耀藍さまがくれた、御守り……あれ?」
何と言う宝石かわからないが、いつもはひんやりとしている宝石が、熱を帯びているような気がする。
「気のせいかな……あっ、いけない、ひっくり返さないと」
香織はあわてて、唐揚げをひっくり返していった。
♢
「
絹の赤い頭巾が、ひょっこりと街路樹から華老師宅を覗いていた。
「ええ、間違いございませんとも。ごらんください、あの行列を」
得意げに言う乙の指す先には、とある家の門に吸いこまれるようにして入っていく行列が見える。
「ここが『おそうざい食堂』なる食堂です。ここに耀藍様のお気に入りの娘がいるはずですわ」
「でも、いくら庶民の食堂とはいえ、看板くらいあってもよさそうではなくって? あれじゃあ、ただの普通の家じゃない」
「佳蓮様のおっしゃる通りですわ。ですが、庶民の世界というのは未知のもの。とりあえず、潜入してみましょう」
「そうね。早く身の程知らずの娘を見つけて、あたくしの方が耀藍様にふさわしいことを知らしめてやらなくては!」
赤ずきん少女、もとい佳蓮は、鼻息も荒くおそうざい食堂の列に近付いていった。
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