第百四十一話 祝福したいけれど


 大蒸篭の蓋を開けると、湯気と共にいい香りが厨に広がる。

 辛好しんこう胡蝶こちょうが同時に言った。

「なんだい、こりゃ……大蒜にんにくと、トマトかい」「そそる匂いねえ」


 吉兆楼の厨。まかないランチがひと段落して妓女たちが引き上げた後、香織はピザまんを蒸した。

 作っておいた生地とトマトソースを持参して食べる直前に蒸す。

 会談の場でも作り立てを出したい。その調理手順の実験でもあった。


「こりゃ、トマトを煮込んであるんだね。それと乾酪が」

 湯気を上げるピザまんを布巾で包み、手の中で割った辛好が子どものように歓声を上げた。


「乾酪がのびる! 熱でとけてるねえ。こりゃ面白い!」

 割った片方にかぶりついて、辛好は鼻をすんすんいわせた。

「トマトの煮込みなんて飽きるほど食べているし作りもするが……こんなトマトの煮込みは初めてだね。香りと味わいがなんというか、初めてだ。どうやって作ったんだだい」

「そうね。あたしもトマトのお料理はたくさん食べているけれど、何かが違うのよね。香辛料かしら?」


 興味津々に香織をのぞきこむ二人に、香織は少し引きつった笑みで答えた。


「じ、実は……王様がおそうざい食堂の評判をお聞きになって、ぜひ何か作ってくれとおっしゃっているそうで、そのための新しい料理なんです。だから、王様の許可をいただいてからでないと詳しい作り方を言えなくて……すみません」


 ぴょこんと頭を下げた香織に、辛好と胡蝶は目を丸くする。


「なんだって?! 王の御命令だって?」

「すごいじゃない香織!」

「あー……えへへ」

(まったくの嘘じゃないけどっ、でもっ、嘘ついちゃった……ごめんなさいっ、辛好さん、胡蝶様!)

 香織は心の中で平謝りする。



『よいか、このことは内密にせよ』

 再び蔡家に呼び出された香織に、紅蘭こうらんは言った。

『保守派の推薦料理人にこちらの献立が知られてはならぬし、もしそなたが勝てば試食会の料理はそのまま会談用の料理じゃ。外交に使われる公的なものゆえ、王の許可なく作り方などを公表してはならぬぞ』


 紅蘭の話によれば試食会は七日後。

 それまでは極秘にしなくてはならない。



「あ、でもちょっと待って。王様が香織の料理を気に入って、王城の厨で働けっておっしゃったら、吉兆楼は困っちゃうわね」

 胡蝶が顔を曇らせる。

「そうか、そうだねえ……」

 辛好も黙ってしまった。


「いえいえ! わたしは王城へは行きませんから!」

 香織はあわてて言った。

「だって吉兆楼のお手伝いしたいですし! おそうざい食堂だって続けたいですし!」


「でも香織、これは絶好の機会よ」

 胡蝶が香織の手を取った。

「こんなに美味しくて新しい料理を作れるんだもの。王の料理人になってもおかしくないわ。吉兆楼のことなら気にしなくて大丈夫よ」

「そうだ。料理人としての頂点に手が届こうっていうんだよ。もしそういう話なら請けた方がいい。よく考えて決めな。あんたの人生がかかってるんだ」

 辛好も言った。

「や、やだ、何言ってるんですか胡蝶様も辛好さんも!」

 香織は笑う。


 もし、もしも会談料理人に選ばれて、それがきっかけで王に料理人としてスカウトされるようなことがあっても。

 おそうざい食堂を守っていきたいし、吉兆楼の厨で働きたい。

 それに。


(王城には、御結婚した耀藍様がいらっしゃるもの……)


 術師は、王家の末の姫を娶るのがしきたりと、華老師が言っていた。

 耀藍と王女が幸せに暮らす王城で働くのは、ちょっとしんどすぎる。

(もうご結婚されたのかしら? 試食会に王女様も御一緒だったらどうしよう……)

 試食会の準備を進めつつこんな思考が頭をよぎり、王城へ行くのすらつらく感じているのだ。王の料理人になるなど、考えられない。


「わたし、王城では料理しませんから! わたしが料理する場所は、吉兆楼とおそうざい食堂ですから!」

 香織は宣言するように叫ぶ。辛好と胡蝶は複雑そうに顔を見合わせた。





「そうよ、そうよね。もうご結婚しているかもしれないわ」


 その夜、皆が寝静まった後、香織は一人厨で試食会の献立を考えながら大きく息を吐いた。


「うう……しんどい。しんどすぎる」


 この世界に転生してきて、料理の知識や主婦としての技術は役に立っている。いわゆるチートかもしれないが、これからも思い出せることは思い出して使っていこう、なんなら忘れないうちに何かに書き留めておこうとすら思っている。


 でも、何十年も前の前世の失恋の痛みは、思い出したくなかった。


「しかも、前世だってこんなにツライと思ったことないんですけど……」


 香織は平凡な女子だった。だから人並みにたくさん失恋もした。それなりにツライ思いをし、その度に人間として成長したなあ、などと思ってきたが。



「こんな思いするなら人間的成長なんてしなくていいっ……」

 それくらい、耀藍のことは胸に痛すぎる。

 心臓が止まりそうな痛みに身体がバラバラにほどけてしまいそうな気がする。

 耀藍が幸せなら、それを祝福してあげたいのに、涙が止まらなくなる。



「……でも、ここまできたらやるしかない! 前世では普通の主婦だったけど、この世界ではわたしは言ってみればプロの料理人! しかも今回は国の命運を左右する勝負なのよ! 私情で手を抜くとかあきらめるとか無いわ!」


 今は心を無にして、料理に集中しよう。

 香織は、マヨネーズとトマトソースのストックを作りつつ、試食会の献立を組み立て、メモを取る。


「主食にする包子とおにぎりに合う主菜を考えよう。で、副菜は……山の中だから、生の野菜より火の通った野菜がいいわよね。包子と相性がいいのは蒸した野菜。でもピザまんだからマヨネーズをたくさん使うのは味がしつこくなりそう……。で、包子があるから食後はやっぱり芳ばしいお茶がほしいわよね。お茶のことは羊剛さんに聞いてみたほうがいいかな……」


 しゃかしゃか、ぶつぶつ。ぐつぐつ、ぶつぶつ。

 香織が立てる小さな音が、今夜も夜通し続いたのだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る