第百三十八話 佳蓮のたくらみ



 耀藍ようらんは、私邸の敷地に入るなり頭を抱えた。

「落ち着け、落ち着くんだオレ……!」


 クチナシの繁みの脇に長身を折ってかがみこむ。広い術師の私邸の中、耀藍が落ち着ける数少ない場所のひとつだ。

 耀藍は空を仰いで叫んだ。

「というかなぜ穏健派は香織こうしょくを推しているんだっ」


 周明高しゅうみんこうには何か考えがあるようだが、料理人として香織には荷の重すぎる話だっただろう。それなのに。

『つらそうだったが、香織は任務の重大さを考えて引き受けてくれたぞ』――紅蘭の言葉を思い返すと胸が張り裂けそうになる。

 耀藍に想いを伝えた香織が、どんな気持ちで引き受けてくれたのかを思うと愛おしすぎて、今すぐ飛んでいって抱きしめてやりたい衝動に駆られる。


「なのに! こんな心境で今、華老師かせんせいの家に行くなど……自殺行為にも等しいではないかっ」


 華老師の家へ行けば、当然、香織とも顔を合わせることになる。


「次に会ったらオレは香織に何をしてしまうかわからん!」


 最後に会った日、身を斬るように香織から離れたことを思い出す。

 あの胸の痛みも、香織の身体の熱も覚えている。

 加えて、今回の件だ。

 冷静に顔を合わせられる自信がない。


 けれど正直、香織の様子も気になる。会談料理人候補を引き受けた香織は今、どうしているだろう。

 一目でいい、物陰から香織の姿を見たい、という気持ちもあるのだ。


「これは途中で鴻樹を巻いてしまって……いやいやいや鴻樹を巻くとかできるのか? やはり最初から別行動にしてだな……」

 ぶつぶつと一人策を練っていた耀藍は、いきなり背後から両目を隠されて派手にしりもちをついた。


「だーれだ」

「むお?!」

「おかえりなさい、耀藍様」

 ふわり、と両目から手が外れ、目の前に少女が現れた。


 双輪ふたわに結った髪に水晶の連なりが揺れる簪。銀糸で縫われた薄桃色の長裙は艶やかな絹で、天女のようだ。整った顔立ちの中、勝気そうな双眸が耀藍をじっと見つめている。

 控えめに言ってかなりの美少女だった。

 が。


「え、ええと……どちらさまだろうか?」

 今の今まで香織のことで頭がいっぱいだった耀藍は、見知らぬ美少女を前にマヌケな問いと曖昧な笑みを返すことしかできない。


 とたんに、美少女がワッと両手で顔をおおった。


「ひどい! ひどいですわ耀藍様! 妻の顔を忘れるなんて!」

「つ、つま?!」


 耀藍は仰天する。

 どこがどうなればこの美少女が自分の妻になるのだ?!


「幼き頃、耀藍様は後宮の庭院にわであたくしによく果実を採ってくださいました。今思えばそれが耀藍様が立てた愛の証だったのですわ。それなのに、今になってあたくしのことをお忘れだなんて」


 愛の証を立てた覚えなどまったく無い耀藍だが、果実を採った、という言葉が記憶の奥底に引っかかった。


 昔、父に連れられて王城に来ると、亮賢と一緒によく遊んだ。後宮の庭院で一緒に梨やすももの実を採って、食べながら遊んだものだ。

 その亮賢の後ろからちょこちょことくっついてきた、亮賢の末の妹の顔と目の前の美少女の顔が重なった。


「そうか、佳蓮かれんか!」

「やっぱり覚えていてくださったのですね! 佳蓮うれしい!」

「むわ?!」


 佳蓮は耀藍に飛びついて、腕を引っぱった。意外と豊満な胸が腕にぐいぐい押しつけられる。


「ちょ、おい、佳蓮」

「あちらにお茶を用意しておりますの。さ、御一緒にいただきましょう」


 母屋へ向かうと、耀藍の私室の露台にある卓子で、小柄な侍女が忙しく動き回っていた。椅子を整えたり茶器に湯を差している。お茶の準備をしているらしい。


 侍女は耀藍たちに気付くと、慌てて手を止めて揖礼した。


「佳蓮様の侍女頭、おとと申します。お見知りおきを」

 テキパキというよりちょこまかとした動作、早口で甲高い声は、野ネズミを思わせた。


「おやまあ佳蓮様、はしたないですよ。御嫁入前の姫が殿方にそんなにくっつくなど」

「いいじゃない、だって耀藍様はあたくしの旦那様になるんだから」

「それもそうですわね」

 おほほほ、と笑い合う佳蓮と乙に、耀藍はおそるおそる聞いて見た。

「ところで、なぜオレと佳蓮が結婚するという話になっているのだ?」


 すると笑っていた二人の表情が豹変し、耀藍を睨んだ。


「耀藍様! 術師は王家の末の王女と結婚するしきたりでございましょう?!」「しきたりでございますとも!」

「それでなくとも、耀藍様とあたくしは幼き頃より想い合ってきた仲ではありませぬか!」「相思相愛でございます!」

「さあ耀藍様! お茶をいただいてあちらで一緒に休みましょう!」「準備も万端でございます!」


 淀みない主従の掛け合いにただただぽかんと口を開けていた耀藍は、乙が開け放った扉の向こうを見てぎょっとした。


 そこは耀藍の私室。

 窓際に、耀藍が気に入っている大きな寝台が置いてある。

 そして寝台には、見覚えのない薄緑と薄桃色の豪奢な揃いの枕や褥。

 それは誰がどう見ても新婚夫婦の寝台の様相を呈している。


「ささ、耀藍様。とぉーってもお茶でございますわ。召・し・上・が・れ」

 妖しげな芳香を放つ茶を耀藍に差し出し、乙がニッと微笑む。

 居ても立っても居られなくなった耀藍は、慌てて立ち上がった。


「そ、そうだ! やり残した仕事を思い出した! 亮賢のところへ行ってくる!」

「え?! 耀藍様?! 兄上のところなど明日でよろしいではありませんか!」

「オレにかまわずむしろ忘れてお茶を飲んでくれ!」


 耀藍は佳蓮の腕を引きはがし、脱兎のごとく駆け出した。



「……もう、耀藍様ったら。あたくしがこんなにお傍に寄り添っているのに、おかしいわ。他の殿方ならとっくにメロメロになっているのに、顔色一つ変えないなんて」


 口を尖らせた佳蓮に、そっと乙がささやいた。


「そうですわね、佳蓮様の色香に惑わないとなると……これはつい先ごろ仕入れた情報ですが、どうやら耀藍様は入城前、お気に召していた娘がいたのだとか」

「な、なんですって?!」

「下町の娘で、よく市場などに一緒に出掛けていたそうです。耀藍様はまだ、芭帝国との交渉会談の最中で、頻繁に王城からお出ましになられる御身。もしや、いまだその娘と会っているのかもしれません」


 乙のささやきに、佳蓮はぶるぶる震える。

「下町娘の分際で……許せないっ!!」


 がちゃん、と茶器を揺らして佳蓮は立ち上がった。


「乙! 兄上にバレないように、急いで外出の準備をしてちょうだいっ!」

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