第百三十六話 聞き間違いか?
議事堂は、王城より少し離れた場所にある。
朱塗りの柱がずらりと並ぶ壮麗な回廊を、数多の高級官僚が議事堂へ向かう様子は圧巻だが、今日はその中でもひと際、人々の注目を集める人物がいた。
皆、その人物に道を譲り、その姿に思わず見惚れて回廊の隅で足を止めている者も多い。
漆黒の長袍、きっちりと一つに結い上げた
ただそれだけの簡素な服装がこれほど華やかに見える美貌はあるまい。
「姉上」
王城側の回廊からやってきた耀藍は、先に声をかけた。
「お久しぶりです御機嫌麗しい御様子でなによりです」
「……ほう。棒読みの挨拶と皮肉が言えるようになったとは、王城での生活で少しは鍛えられていると見ゆる」
美しい紅唇の端を上げた姉に、耀藍は引きつった笑みを浮かべた。
「ていうか、なぜ急に議会へ? 俺はちゃんと仕事してますけど?」
「阿保め。そなたのことなどどうでもよい」
「へ?」
「これ以上、蔡家として政の空白を作るわけにいかぬでな。父上はまだまだ外出できぬ身体だと医師は言うた。今が潮時なのじゃ。たまたまそなたの入城と重なっただけじゃ。というか、そなたが入城を早めたのであろうが。不出来な弟のためにわざわざこのような伏魔殿に来るほど我はヒマではない」
「は、はあ……なんていうか、すみません」
相変わらず手厳しい姉に耀藍は返す言葉もない。
「それより、次の会談の準備はしておるのだろうな」
「それはもう!」
耀藍は心なしか胸を張った。
鴻樹と共に、不眠不休で書類を作った。芭帝国兵の国境付近の完全撤退と居座る兵への強制力行使だ。
これを認めさせれば呉陽国の物流はだいぶ元の水準まで回復する。鴻樹と耀藍はそう見込んでいた。
「楊氏率いる保守派も、会談の内容に関しては評価してくれています。あとは、会談場所で出す料理と、それを作る料理人を決めるだけです」
芭帝国側を納得させて滞っている商人や隊商の往来を復活させ、会談場所を提供しているマニ族への印象と新しい塩の商い経路を開拓するため、料理人の選定は重要事項だった。
しかし、それが簡単なことではないことも、耀藍はわかっている。
「姉上。我が家の料理人から一人、候補者を出してはいかがですか。確か、三人とも呉陽国では名の知れた者たち。誰を候補者に出しても保守派の候補者と張り合えるはずです。保守派は、楊家が強力な料理人を用意していると聞いてますし」
「心遣いは感謝するが耀藍よ、そなたは王の側近。中立の立場じゃ。蔡家の者として物を見てはならぬ。王と同じ目線で見て、王の御判断の助けとならねばならぬぞ」
「は、はい……たしかに」
紅蘭の言う通りだった。さすがは己にも厳しいこの姉である。
「それに、もう我ら穏健派も候補者は立てておる」
「えっ、そうなんですか?」
「周家のおじさまが先日、打診に来てな。周おじさまが指名した料理人に依頼し、承諾を得た。今日の議会でその料理人を推薦する」
議会では、饒舌な楊氏に比べて周氏はニコニコと聞いていることが多い。
今回も、建安で最高級料亭の料理人を楊氏が引き抜いた、と聞いていたので、周氏率いる穏健派はこの件に関しては敗退か、と思っていた耀藍だが。
「さすがは周おじさん、と言いたいところですが……建安にまだ腕のいい料理人って残っていたんですか? それとも、周おじさんの広い人脈のツテでどこかから連れてくるんですかね?」
「ほう、術師に褒められるとは光栄ですなあ」
「うわっうわあっ?!」
耀藍はぎょっとしてひっくり返りそうになり、危うく朱色の柱にしがみつく。
いつの間にか耀藍に寄り添うように、にこやかな紳士が立っていた。
光沢のある灰色の深衣は派手ではないが、髪色と合っていて洗練されている。
周家当主、
「周おじさん!」
「耀藍くん、議会で見るときは大人になったなあと感心していたけど、相変わらずビビりなんだねえ。そんな蝉のごとく柱にひっついて、せっかくの美青年が台無しじゃないか」
「いきなり傍にオジ……人が立ってたら誰だってびっくりしますっ」
「耀藍、すまないね。父の悪戯はいまだに変わらなくて」
「
「昔から、後ろから驚かせて君を泣かせたりしていたよね……まったく父さん、耀藍はもう蔡術師として王をお支えする立場にいるんだよ。そんな幼稚なことをしては失礼じゃないか」
「いいではないか。誠和、将来の
「……義弟???」
耀藍が首を傾げるのと、紅蘭が「おじさま、お先に」とその場を離れるのは同時だった。
心なしか赤かったような姉の顔と、今しがた自分が繰り返した言葉の意味に耀藍はハッとする。
「ま、まさか、誠和さん、姉上とけ、結婚するんですか?!」
「そうなんだよ! めでたいだろう耀藍くん!」
誠和が何か言うより先に周民高が耀藍の手をがっしり握った。
「術師はなかなか外には出られんが、身内の冠婚葬祭は出席できるからな! 君も楽しみにしていなさい。あ、そうだ、僕は紅蘭ちゃんに話しがあったんだった」
いそいそと紅蘭を追う周明高の後ろ姿に、誠和は溜息をついた。
「……父上が勝手に話を進めていてね」
誠和が申し訳なさそうに言った。
「もちろん、君たちの御両親と話し合い結果なんだけれど……蔡のおじさんは、ほんとうに気の毒だね。ずっと体調が思わしくないんだろう?」
「え、ええ、まあ」
たしかに、父の体調は良好ではない。だが、耀藍が家を出てくるときは、そんなに悪いようにも見えなかった。
「それで、紅蘭の花嫁姿が見たいという蔡おじさんの願いを叶えよう、と父が意気込んでね。私と紅蘭はおいてけぼりな状態なんだ」
「本人たちがおいてけぼりの結婚話って……ていうか姉上ですよ?! いいんですか誠和さん?!」
弟の言葉としてはやや配慮に欠けるが、それでも耀藍は男として誠和に言う。
「姉上が妻って……その、なんていうか……毎日ドキドキはらはらっていうか、頭が上がらないというか」
「ははは。紅蘭は気が強いからね。でも――」
議事堂の鐘が鳴った。着席の合図だ。
「ああ、そろそろ王もお見えになるね。耀藍はここで王をお待ちするんだよね?」
議場で、と大扉へ行きかけた誠和を耀藍は呼び止めた。
「そういえば、周おじさんと姉上が推薦する料理人て、どんな人物なんですか?」
「ああそうか、術師としては気になるよね」
誠和は耀藍の耳の傍で声を低めた。
「私も会ったことはないんだが、父上が保守派の候補者に勝てるのはその人物しかいない、と言っていてね。近頃、建安で
誠和は今度こそ議事堂の大扉に吸いこまれていった。
「……聞き間違いか?」
耀藍は言葉もなく、王と鴻樹にどつかれるまで回廊に呆然と立ち尽くしていた。
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