第百三十五話 冷葉という楽士



 蕭白しょうはくが静かに語ってくれたのは、人前で二胡や舞いを披露するときは気を付けるように、という忠告だ。


 蕭白によれば、香織の二胡の腕や舞いには、芭帝国後宮にいたことを思わせるものがあるという。

 それらを見て、香織の過去――この世界での麗月リーユエという少女としての過去という意味だが――に気付く者がいるかもしれないというのだ。



「だいじょうぶですよ。あの部屋には魯達様たちと、楽士の方たちしかいなかったので」

「そう。それならいいけれど……」

 胡蝶は微笑んだ。

「香織が留守番をしてくれていたおかげで、あたしたちも自分たちの役目を果たせたわ。王様に褒美の品も金子もたくさんいただいたし、吉兆楼の名もますます上がるし、いいことづくめ。でも」


 胡蝶の麗しい顔がわずかに曇った。


「まさか白龍はくりゅう様が新しい蔡術師さいじゅつしだったとはね。少し前に即位したばかりの王はお若いから、きっと蔡術師が出るだろうとは言われていたけれど」

「蔡術師って、王様の年齢が若いと選ばれるんですか?」

 胡蝶はゆるゆると首を振った。

「年齢は関係ないわね。蔡術師は吉凶両方の意味を持つと言われているから」


 徳の高い王様やダメな王様に蔡術師が仕える、ということではないらしい。


「蔡術師というのはどうやって選ばれるのか、実はあたしたち民には詳しく知らされてないの。昔から伝わる伝説に逸話があるだけで。それによれば、いつもいるわけじゃなくて、時代の変わり目に出現し王の政を助ける存在なの。だから民からの評判もまちまちね。今は、芭帝国の内乱の影響や天変地異のおかげでこの国もいろいろと大変な時期だし。白龍……じゃなかった、耀藍様も大変だわ」


 胡蝶は気づかわし気に香織を見たが、香織は気付かなかった。別のことを考えていたからだ。


(そんな大変な役目を背負っているなんて……)


 出会ったばかりの頃、耀藍が「自分は忌み嫌われた存在」と言っていたことを思い出す。

 術師として生涯を王に捧げ、まつりごとを補佐する役目を運命づけられていながら、民にはその異能のために「呪術師」と忌み嫌われる。

 以前の耀藍がどこか投げやりな態度だった理由が、やっとわかった。


(耀藍様、だいじょうぶかしら……)

「香織はもちろん、知っていたのよね?」

 耀藍の身を案じていた思考からハッと現実に戻る。香織は慌てて謝った。

「すみません、秘密にしていて」

「それはいいのよ。人に言いふらせることじゃないわ。でも一つ聞いてもいいかしら?」

「は、はい。なんでしょうか」

「白龍様――耀藍様は、香織の護衛って言ってたわよね。それも方便だったとしても、どうしていつも一緒にいたのかしら? 護衛じゃないなら、まるで香織を見張っているような」


(胡蝶様さすが鋭い)

 そう、まさに耀藍は香織を見張っていたのだ。少なくとも、そういう名目でいつも耀藍と一緒にいた。


「実は……」


 香織は、馬車に轢かれて華老師宅へ運ばれ、世話になることになった経緯をすべて話した。

 香織が芭帝国後宮にいた者かもしれないと思っている胡蝶になら、話してもいいと思った。


「そうだったのね」

 胡蝶は納得したように頷いた。

「やっぱり、香織は芭帝国の後宮にいたのかもしれないわね……。追手がかかってないといいのだけれど」

「追手?」

「どういう事情であれ、後宮から出ることは罪に値すると言われているわ。香織は容姿も良いし、皇帝や皇子のお気に入りだった可能性もある。ならば尚更、追手がかかっていてもおかしくないわ」


 麗月リーユエの記憶が脳裏をよぎる。

 龍の刺繍の入った赤い袍姿の青年。あれは皇太子だ。

 皇太子は、一女官だった麗月を見初めて、妃嬪に召し上げようとしていた。


(でもまさか、追手なんて)

 考えたこともなかった。しかし、言われてみると不安になる。


「もし何か困ったことがあったら吉兆楼ここを頼っていい。一人で悩んじゃダメよ」

「胡蝶様……」

 胡蝶の優しさが身に沁みて、鼻の奥がつん、としたときだった。


「胡蝶様。新しく仲居に入った子が、挨拶しに来ましたよ」

 妓女が来て、そう告げた。

「あらそう。もうそんな時間」

 胡蝶は煙管の蓋を閉めて立ち上がった。

「最近、オニギリのおかげで吉兆楼の料理の評判がますます上がってね。給仕が間に合わないから、一人雇うことにしたの」

「そうなんですか」


 香織は少し驚いた。妓楼は妓女以外の人手をあまり雇わないと聞いている。香織は例外中の例外だったと後で知った。



「す、すみません。わたしが夜までお手伝いできないから……」

「やだ、そんなんじゃないわよ。それに、短期の賃仕事で、身元もしっかりした子だし」


 そのとき、す、と回廊から人影がのぞいた。



「あ……」



 香織は思わず声を上げる。

 見覚えのある顔だった。



「あ! 香織さんだわ!」

 嬉しそうに声を上げたのは、きりりと吊り上がった涼し気な目元。すっきり結い上げた髪が印象的な妙齢のクールビューティー。

 香織が魯達たちの前で舞いを披露した時、楽を奏でてくれた楽士の一人だ。



「うれしい! またお会いしたいと思っていたの。あたしは冷葉れいは。しばらくこちらで御給仕のお手伝いをすることになったの。よろしくね」


 冷葉はにっこりと香織の手を取る。それを見て、胡蝶が頷いた。


「ああ、そうだったわね。宋元様はあの時も冷葉を連れていたのね。なら話が早いわ。香織、冷葉は芭帝国を拠点に活動する芸座の超売れっ子楽士なの。食客としてしばらく宋元様の御屋敷に滞在しているそうよ」

「そうですか」


 あの時、宋元がそんな話をしていた気がする。男性の楽士もいた。男性が龍笛、冷葉が二胡を奏でていた。

 香織はこの世界の音楽の良し悪しはわからないが、身体に沁みこんでくるような、素晴らしい音色だった。


「胡蝶様。あたし、いままでもいろんな土地で楽士をやってきましたけど、あんな見事な舞いはめったにお目にかかれませんわ。まるで……皇帝の後宮に侍る踊り子のようで」



 涼し気な目元が一瞬、食い入るように見つめてくる。気のせいだろうか、その鋭さに香織はドキリとした。



「よろしくね、香織さん。貴女とは仲良くなりたいわ」

 冷葉は香織の手をぎゅっと握った。

 










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