第百三十四話 縁側で



 次の日。吉兆楼で妓女たちがまかないを食べ、厨房がひと段落したあと。

香織こうしょく、食材の在庫を確認してくれるかい」

 辛好しんこうに言われて香織は厨房の食糧庫をのぞく。


 食糧庫は厨房の床下、壁面の一角、それと外に小さな独立した物置小屋が一つある。それぞれ、すぐに使う生ものや野菜、調味料、長く備蓄しておける酒や米などに分かれて貯蔵してある。



「胡椒と八角、あと、塩がもうないですね」

「ああ、もう塩を入れる時期かい。この頃じゃあ、おにぎりが大好評だから塩もいつもより早く減ったかもしれないねぇ」


 辛好がうれしそうに言う。

「あたしゃおにぎりを作るのが好きさ。こう、つやつやの白飯を握って、だんだんと形になっていくのがいいよねえ。香織のようにうまい具合にはいかないけどさ」

「とんでもないです! 辛好さんのおにぎり、すっごく上手ですよ!」

 これは心からの言葉だった。

 初めて作るといっても、さすが吉兆楼の厨房を長年守ってきた大ベテラン。コツをつかむのも早く、何度か香織と一緒に作っただけで、ふっくらと米粒つやめくおにぎりの作り方を習得していた。


「もうわたしが作り置きしていかなくても、お客さんの注文が入ってから辛好さんが作ってくれるので間に合うじゃないですか。辛好さんのおにぎりが美味しいから注文もたくさん入るんですよ」

「まったく、そんなに褒めたってなんにも出ないよ」

 辛好は照れたように言う。

「とにかく、塩が足りないのは困っちまうから、すぐに仕入れないといけないね」

「じゃあ、今日の帰りに羊剛ようごうさんのところに寄って、明日こちらへ持ってきます」

「そうかい? 重いのに悪いね。以前のようにまとめて仕入れられればいいんだが、今はこんなご時世だからねえ」


 辛好が苦笑いする。

 前は、塩は米や酒と一緒にまとめて運んできてもらっていたらしいのだが、芭帝国の内乱で物流が滞ってからは、必要量をこまめに買うようにしているらしい。

 塩は国が管理をしているので流通が途絶えたり急激な値上がりこそないが、品が入ってこなければ店側も売り渋るし、役所でも値上げを許すしかない。


「だいじょうぶですよ、赤ちゃん一人抱っこしてくると思えば、たいした重みじゃないです」


 塩一袋が約三キロ~五キロ。赤ちゃんの重さだ。

 辛好が目を丸くする。


「あんた、若いのに上手い例えをするねえ。そんな綺麗な顔して、まさかもうこどもがいるってんじゃないよね?」

「え?! ま、まさか! 結婚だってまだですし! こどもなんていないですよ!」


 この世界では、と心の中で付け足す。


「じゃあすまないが、頼んだよ」

「はい、任せてください! それじゃあお先に失礼します」

 辛好に手を振って、香織は厨房を出た。



 庭院にわを通り母屋へ入ろうとしたとき、母屋の縁側で手招きしている人影に気付く。


胡蝶こちょう様!」

「久しぶりね、香織」


 耀藍の入城の儀の日、胡蝶の留守番を香織が務めて以来、胡蝶とはなかなか顔を合わせる機会がなかった。

 胡蝶は縁側で煙管きせるの道具を広げて、紫煙をくゆらせている。柳のようにしなやかながら姿勢のよい胡蝶は、部屋着の絹の上衣を羽織っているだけなのに一幅の絵ような美しい佇まいだ。

 香織の顔を近くで見て、胡蝶は眉を寄せた。


「少し痩せたんじゃない?」

「そ、そんなことないですよ!」


 笑みを作ったが、内心冷や汗をかく。さすがは一流の妓楼を切り盛りしているだけあって、胡蝶は観察眼が鋭い。


 耀藍ようらんの入城以来、香織はきちんとご飯を食べていなかった。


 おそうざい食堂や吉兆楼の料理や、華老師たちに作るご飯の味見をするだけで、卓子についてご飯を食べることはほとんどない。

 心配する華老師たちには、新しい料理の試作で忙しい、厨で作業しながら食べているから大丈夫、とゴリ押ししていた。


 胡蝶は何か言いたげに紫煙をくゆらせていたが、やがて煙管を受け皿に置いた。

「留守番、ありがとうね」

「え?」


 一瞬戸惑い、思い当たる。耀藍の入城の日のことだ。


魯達ろたつ様や羊剛様、宋元そうげん様からも驚かれたわ。香織、舞いを披露したんですってね。見事だってすごく褒めてくださったわ。あの方たちのように目の肥えた方に褒められるなんてすごいことよ」


 ただ、と胡蝶は声を低める。


「以前、蕭白師匠せんせいとあたしが言ったこと覚えているかしら?」

「あ……はい」


 蕭白の優しい微笑みが思い出される。

 香織を動揺させないように、事態の重さを感じさせないように、蕭白は言葉を選んでくれた。



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