第百三十三話 香織の決意
「うぅ、どうしよう」
蔡家を出た香織は、頭を抱えた。
正直、今、耀藍と顔を合わせるのはつらい。
おまけに『国を代表する料理人』という大役を背負ってしまうかもしれないのだ。
「つい! つい梅に釣られてやるって言っちゃったよう」
速攻引き返して「すみませんやっぱりできません」と言いたい衝動に駆られるが、蔡紅蘭が「そうかやらぬのか」と妖艶かつ凄みのある笑みを浮かべるかと思うと足がすくむ。
蔡家の門扉を叩く気にはなれず、香織はとぼとぼと歩き出した。
「とりあえず市場へ行かなくちゃ」
今日は青嵐が気を使ってくれたおかげで市場をゆっくり回ろうと思っていたが、蔡家に思ったより長くいたのでもう陽が傾きかけている。
蔡家のある御屋敷街を出て、大通りに出た。
建安の都は碁盤の目のような作りになっているので、道はわかりやすい。前世の京都よりもきっちりとした碁盤の目のような区画だ。馬車や、騎獣という異世界ならではの獣が通るため、全体的に道の幅が広い作りになっている。まばらに植えてある街路樹の下では人や馬が休んでいたり、子どもが遊んでいたり、賑やかだ。
露店が軒を連ねる大通りに出ると、そこへお祭りのような活気が加わり、歩くだけでワクワクするのだが。
「なんだかこのところ、ますます市場の活気がなくなっている気がするわ」
少し前まで耀藍と歩いた市場はもっと賑やかだった。
耀藍がいなくなった寂しさからそう感じるのだと思っていたが、どうもそうでもないようだ。
初めて市場に来た頃より、露店と露店の間に隙間がある。東西目抜き通り、南北目抜き通りより以南に露店は軒を連ねるが、馬車が三台は並んですれ違える大通りには、店が立たずに閑散としているエリアもある。
「芭帝国の内乱の影響がきっと長引いているのね」
前世でも、東ヨーロッパで起きている紛争が世界中の国々や日本にも影響を与え、小麦が高騰したことでパンなど小麦製品の値段が大幅に上がり、困ったなと思った記憶が残っている。
「芭帝国と呉陽国は国境が接しているんだもの。物流の影響はパンどころじゃないわ。全体的に物が高いし、少ない気がする……この先どうなっちゃうのかしら」
この先、という言葉にハッとする。
「そうだわ。わたしはもう、この世界に生きているんだ」
ここはもう香織にとって『異世界』ではない。
自分の生活がある場所。
自分が生きる世界だ。
「この世界で起きていることは、わたしにとってはもう他人事じゃない。だったら、会談が成功するように力を尽くすのは当然……いいえ、むしろ、ありがたいことだわ!」
前世では、遠い東ヨーロッパの紛争に対して何かしたいと思っても、実際には行動に移せなかった。
募金や衣服を送る取り組みを町のあちこちで見かけたけれど、日々の生活に追われて関われなかったのだ。
気持ちはあっても行動できなかった
「そうよ……世界が変わっても自分が生きる場所を大切にしたい想いは同じ。料理だってそうだわ!」
心をこめて作ったものは、人々を笑顔にする。
世界が変わっても、それは変わらないことを香織は知った。
香織がおそうざい食堂で出す料理が人々に喜んでもらえているように。
「これはもう……やるしかない!」
国を代表する料理人になり、会談特使のお供をする。平和のために料理を作れるのだ。願ってもないことではないか。
これはきっと、神様の采配。もしかしたらこのために、香織はこの世界に転生したのかもしれない。
つらくても足がすくんでも、絶対やるべきだ。
「よし、43歳主婦の底力を活かしてみせるわ」
香織は空を仰ぐ。しだいにオレンジ色に染まる空の下、露店の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。
「活気がないなら活気が出るように協力しなくちゃね! 今日はたくさん買い物して帰るわ!」
香織は買い物袋を広げて、南北目抜き通りを下町に向かって歩き始めた。
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