第百三十二話 蔡家の梅を所望します!


 思わず、蔡紅蘭さいこうらんの顔を見上げる。

 そこにいるのは耀藍ようらんに似た顔ではなかった。以前、香織こうしょくに間諜だろうと迫ったときの、妖艶ながらも畏怖を覚える政治家の顔だ。


「議会の舵取りをする派閥を決める、重要事項だ。我が蔡家も穏健派に属しておる。ぜひとも、穏健派の推すそなたに勝ってもらって会談特使の供をしてもらいたい」


 


「あの、何か勝負をするんですか……?」

「保守派と穏健派、それぞれが推す料理人が王や貴族諸侯に料理をふるまい、どちらが会談特使の供をするのにふさわしいかを決める、と聞いておる」


 雹杏ひょうあんが茶器を卓子に並べていく。芳香が漂ってくるが、それを楽しんでいる余裕は今の香織にはまったくなかった。


「そ、それならたいへん申しわけないのですが、その……穏健派?の方々にはどなたか別の方を推すようにお伝えしてください。わたしなどではとてもそんな勝負には勝てないかと」


 必死に香織が言いつのると、紅蘭は苦笑した。


「そなたには突然のことで本当に申しわけなく思うておる。が、これはお願いという名の依頼、いやゴリ押しというべきか……そなたに話すように我に指示した御仁が、そなたを指名しておるでな。諦めて引き受けた方が身のためだ」


 蔡紅蘭にこんな風に言わしめるとは、かなり地位の高い人物が香織を指名したと想像できる。


(ということは……もしわたしが無理に断ったら、華老師や小英や青嵐に迷惑がかかるかもしれない)


 この世界の仕組みを完全に理解したわけではないが、王がいて貴族がいて、となると、それらの上流層の人々が一般庶民に嫌がらせをすることなど容易たやすいことだと思われる。


 引き受けるしかないのか、と香織が逡巡していると、紅蘭が茶器を傾けながら言った。


「もちろん、その御仁からそなたへ礼はさせよう。我からも相応の礼を出す」

「そ、そんな! お礼なんていいんです! わたしはただ、わたしなどでは、そんな大舞台に力不足だと申し上げたいだけで」

「よい。遠慮するな。かなり強引な頼みだからな。そなたも相応の対価をもらうがよい。そなたには、弟のことへの礼もあるゆえ」


 耀藍のことを言われたことに気付き、胸がぎゅっと痛む。

「そ、そんな……お礼などはいりません」

 そんなつもりで耀藍にご飯を作っていたわけじゃない。


「まあそう言うな。なんでもよいぞ。何が欲しい。金子か? 宝玉か? そなたが欲しい物を何でも与えよう」

「わたしは」


 答えに詰まったとき、ふと卓子に出された茶菓子に目が留まった。


「あの……これって、梅ですよね?」


 白い上品な皿に盛られた黄金色の大粒の実は、つやつやと輝いている。

 おそらく、シロップ漬けか何かだろう。傷一つない、芸術品と言ってもいいくらいの出来栄えだ。


「さすが目が高いのう。これは糖蜜漬けでな。砂糖も上等なものを使っておるが、梅が格別じゃ。我が家の梅園で丹精込めて栽培され、収穫された梅ゆえ」


(あれだ! 前に見た、あの大粒の梅)


 庭院にわにひろがっていた、瑞々しい黄緑色の実を思い出す。

 さっき、梅干しを想像して出てきた唾液が、また口に広がる。


「わかりました。お引き受けします」

 反射的に言っていた。もう後戻りできない。しかし、香織は卓上の黄金色の実に釘付けになっていた。


「おお、そうか。して、礼には何が望みじゃ」


 紅蘭はうれしそうに身を乗り出す。口の中にたまった唾をごくりと呑みこんで、香織は言った。


「梅を。蔡家の梅園で収穫されるというこの梅を、分けていただけますか?」


 紅蘭は一瞬、大きな双眸を更に大きく見開き、弾けるように笑った。


「梅か! そなたのような若い娘は宝玉や衣装や金子が欲しいのだろうと思うたが、梅とはな」

「だ、だめでしょうか」

「いや。もちろん、喜んで与えよう。そなたが望むだけの量をな」


 香織はうれしくて飛び上がりたい気持ちをおさえた。

 あの大粒の梅が手に入る。

 そうしたら、梅干しを作ることができる。梅シロップも、梅酒も、あの見事な実なら何を作っても美味しいだろう。


「では、近いうちに雹杏を遣いに出すゆえ、詳細を聞いてくれ」

「わかりました」


 席を立とうとする香織に、紅蘭が言った。


「そなたとは、また会いたいと思うておった」

「え……」

「弟……耀藍は食道楽でな。術師とはどうも通常の人間よりも食物を欲するようでな。量も食べるが味にもうるさい。だから我が家は呉陽国でも屈指の料理人を揃えておるが、そなたが現れてから耀藍は家で食事を摂らなくなった。そなたの料理でなくては、ダメだったらしい。あの耀藍がそこまでこだわるのだから、我もそなたの料理が食べてみたかったのじゃ」


 うれしいけれど、紅蘭の言葉は甘く鋭く胸をえぐる。

――耀藍様が、そんなにわたしの作った物を気に入ってくれていたなんて。

 香織も、耀藍に作った料理を食べてもらうことが大きな喜びだった。


 ありがとうございます、となんとか絞り出そうとして、紅蘭の言葉と重なった。


「我もそなたの作った物を食べてみたいものじゃ。耀藍も、特使の特権でまたそなたの作った物を食べられるのだから、我にもふるまってくれてもよかろう?」

「え…………」


 紅蘭の言ったことを理解するのに、数拍の時間を要した。


「あの、紅蘭様、もしかして会談の特使というのは」

「特使は宰相の李鴻樹殿と、耀藍だが」


 耀藍に会えるかもしれない――その思いは、戸惑いになって香織の中で吹き荒れた。


 今、耀藍と顔を合わせるのは正直つらい。

 まったく癒えていない傷に、塩をぬりつけるようなものだ。


 そんな香織の様子を見ていた紅蘭の双眸が、つと細まった。


「やはり会談特使の料理人は、やらぬか」


 威圧するでも怒っているのでもない。

 紅蘭はただ、問うているだけだ。


 その静かなまなざしを見ていた香織は、はっきりと首を振った。


「いいえ。やらせていただきます。蔡家の梅、いただきとうございますので」

 香織は深く頭を下げ、そのまま退室した。




「……たいした娘じゃ」

 香織が去った後の扉をじっとみていた紅蘭が穏やかな笑みを浮かべた。


「耀藍に、想いが残っているであろうにな」


 周氏から依頼を持ち掛けられたとき、紅蘭は懸念していた。

 今、耀藍と再会することは、あの娘にとっては身を切られるようにつらいだろう、と。

 ゆえに、ずるいとは思ったが、耀藍が特使であることは言わずに話を持ち掛けた。

 耀藍が特使であると知ったら、考えが変わるかと思ったが。


「梅のために、とはな。方便であれ、いずれにせよ骨のある料理人とみた」


 紅蘭は、香織の作る料理がますます楽しみになった。


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