第百三十一話 蔡紅蘭の依頼
久しぶりに訪れた蔡家の庭には、椿が咲き乱れていた。
花びらが幾重にも重なる可憐な花が、あちこちに咲いている。ピンク、白、赤と色も豊富で、今が寒い季節だということを忘れるほどだ。
もっとも、寒いといってもこの世界の気候は温暖らしく、前世の秋や冬のように寒さが厳しいわけではなさそうなのだが。
回廊を雹杏に続いて歩きながら、ふと広い庭院に目をやる。
(前にここにきたときは、あの辺りにたくさん大粒の梅が広げてあったのよね)
あまりに見事な梅の実に目を奪われて思わず質問し、雹杏に冷たく返されたこと思い出す。
(あのとき雹杏さんが言ったことを考えると、この世界には梅干しはないようだったけれど)
ほどよく皺が出て柔らかくなった梅干し。赤く色づいた実を口に入れれば、思わず表情が縮まる酸っぱさが口に広がる。旨味ある塩味に白飯やお茶がほしくなる。
(梅干しが食べたい……!)
口の中に唾液がたまっていく。
困ったな、と思っていると、雹杏が立ち止まった。見覚えのある見事な彫刻扉を静かに叩く。
「香織様をお連れしました」
「ご苦労であった。入れ」
中から威厳のある、しかし艶やかな声がした。
「ようこそ、香織殿。久しいのう」
まつ毛の長い大きな双眸に細い鼻筋、形のよい紅唇。
端麗としか言いようのないその美しい顔は、忘れられない人の面影が濃く、思わず香織は目をそらしてしまった。
「我と話すのは気詰まりかもしれぬが、もうそなたを間諜と疑っているわけではない。ゆったりと寛いでほしい。さあ」
(く、寛げって言われても……)
天井も高く三十畳はあろうかと思われる部屋に二人きりでは、貧乏性の香織としては落ち着かない。雹杏はおそらく、お茶の支度に出ていったのだろう。戻ってくる気配がない。
おそるおそる顔を上げると、やっぱり耀藍にそっくりな顔がじっと香織を見ている。それだけで鼓動が速くなる。
(うーん、どうしよう……そうだ!)
香織は蔡紅蘭の首から下に目を向ける。豪奢な金糸の刺繍が彩る紅い長裙は、豊満な胸をこれでもかと強調していた。
(ふ、不謹慎かもしれないけど……ちょっと胸元を見させていただこう)
豊満な胸からは耀藍を思い出さないし、顔を見て話をしているように見えるから失礼にもならないだろう。
紅蘭が耀藍に見えないように、じいっと長裙の胸元に視線を注ぐ。
(それにしても美しい胸だなあ……ウエストがあんなに細いのに、この胸の大きさは反則よね。大きな白桃が二つくっついているようだわ。この世界にはブラジャーもないし、豊胸手術なんてありそうもないし……生まれつきこんな美乳の人もいるのね。異世界だから? なんにせようらやましいわ……)
「香織殿? いかがした?」
「えっ、いえ、なんでもないです!」
「改めて、今日はここへ来てくれて感謝する。弟がだいぶん世話になったというに、礼の一つもしていなかったな」
「そ、そんなことは……」
「重ねて今日は、そなたにお願いがあって御足労願った」
「……お願い? わたしに?」
蔡紅蘭のような何でもできそうな人物が、香織に何のお願いがあるのだろう。
「単刀直入に言う。呉陽国代表の料理人として、国境会談の特使の供をしてくれぬか」
「えっ……」
香織は驚きのあまり、固まった。
(わたしが、呉陽国代表料理人? そ、それに、国境会談の特使の供って、どういうこと?)
「驚かせてすまぬ。言葉通りなのだが、説明が必要じゃな」
香織の思考を読んだように、紅蘭が話し始める。
「芭帝国の内乱のために国境の治安が悪くなり、物流が滞っておることは知っておろう?」
「は、はい。物価が値上がりして、人々は困っています」
「そうであろう。民の生活に大きな影響が出ておるでな。隣国の内乱とはいえ、呉陽国としてこのまま放っておけないとの御英断で、王は特使を遣わされた。国境付近で芭帝国と安全保障についての会談を続けている最中だ」
「先ほど、国境会談の特使の供、とおっしゃいましたが、もしかして」
「うむ。特使によると、次の会談では芭帝国の特使や山の民の代表たちに料理をふるまい、民の豊かな食生活を取り戻すためには商人や隊商の保護が必要であることを訴え、更に新しい食材の誘致を行いたいらしい」
「豊かな食生活や食材の誘致のため……確かに大事なことですが、まさか」
「左様。そのために腕の良い料理人を連れていきたいとのことだ。そこで、そなたの名が挙がった」
香織は驚いて飛び上がりそうになった。
「むむむ無理です! わたしがそんな大切な御役目をするなんて!!」
心からの叫びだった。
異世界転生者が、この世界の大事を決める会談に臨むなんて。
異世界転生者が世界を救うという展開は、物語の中だけのことだ。
「どなたか他の方にっ……」
「まあ聞け。まだそなたに決まったわけではない。議会の穏健派は聖厨師・香織を推す。が、議会の保守派は他の料理人を推す」
「でしたら、その保守派? の推す方にぜひ」
「そういうわけにもいかぬのだ。これは、会談の料理人をただ決めるだけの話ではない」
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