第百二十九話 梅の糖蜜漬けと蔡紅蘭
初夏から数か月、なみなみと注がれた金色の蜂蜜に漬かっていた大粒の梅は、たっぷりと芳醇な甘さを含んでいる。
梅の酸味とほどよく溶け合った果肉は、口の中を芳香と節度ある甘みで満たしながら、疲れた喉を潤してするりと身体へ入っていく。
「美味じゃのう」
妖艶な美女、蔡紅蘭は、紅唇からほう、と感嘆の吐息をもらす。
「やはりこれじゃ。喉が疲れたときにはこれに限る」
先刻まで、耀藍がよこした遣いに向かって大声で怒鳴っていたため、喉がひりひりしていた。
「紅蘭様、もう少し喉を潤しては。湯を差しましょうか」
「そうだな。頼む、
蔡紅蘭の優秀な侍女・雹杏が、美しく種ばかりになった梅の上から湯を注ぐ。
「紅蘭様。耀藍様はなんとおっしゃっていたのでしょうか」
湯を差しながら、雹杏が気づかわし気に主を見た。
「出過ぎたことをお聞きして申しわけございません。紅蘭様があんなに声を荒げるのは、お珍しいことなので、つい」
「よい。すまぬな、心配をかけて。そなたがこうして
大輪の花の如き
『オレは一人で大丈夫なので、姉上は王城へ来なくていいです』。
耀藍が言ってきたのは、平たくいえばこうだ。
「まったく、どこまでマヌケなのだあの阿呆め!」
紅蘭は、議会で冷たい視線にさらされている耀藍を助けにいく……わけではない。
結果そうなるとしても、美しき
というか、本当は、当主代理として表舞台には立ちたくない。
父の病状は思わしくなく、回復の兆しはない。
当初は短期間の当主代理のつもりが一年以上も経ってしまい、議会を欠席する日々が続いている。大貴族七家の蔡家がこれ以上、議会欠席を続ければ、派閥の均衡が崩れかねない、という政治的な事情があるため、このあたりが潮時だった。
しかし、間が悪すぎる。
耀藍は術師として入城したばかりで、年齢も若い。議会の古狐たちの目には小童と映るだろう。ゆえに議会で冷遇されることは目に見えているし、事実そうだと先刻の耀藍の遣いからも聞いている。
そして現在、あろうことか周家の長男と紅蘭の縁談が持ち上がっているのだ。
ここで紅蘭が蔡家当主代理として議会へ行けば、今まで欠席していたくせに弟や将来の夫の実家へ加勢するためにしゃしゃり出てきた、と思われることは火を見るより明らかだ。
「あの
すべては家のため。紅蘭としては、屈辱を呑んで決めた議会出席だというのに。
耀藍はきっと、姉に小言を言われるのだろうと先回りして遣いを寄越したのだ。
せめてアホ耀藍のことだけだったらよかったのに、と紅蘭は思う。両親から突然言い渡された結婚話のことを思い出して大きく息を吐いた。
「ぜっったい嫌じゃ。なぜ我があのボンヤリ男と結婚せねばならぬ!」
もちろん両親には抗議した。実際には病床の父ではなく、母に抗議したのだが、何事にも鷹揚な母は「今さら照れることないでしょー」と笑って取り合ってくれない。
「ぐぬぬ……我は結婚などせぬ!」
勢いよく蜜湯を飲み干したとき。
「それは困りますなあ」
ほ、ほ、ほ、と上品な笑い声が入ってきた。
「周家のおじさま!」
「おお、紅蘭ちゃんはますます綺麗になったのう。我が息子にはもったいないくらいじゃがもちろん! 我が家は紅蘭ちゃんを大歓迎しますぞ」
周家の当主・
「紅蘭ちゃん、嫌なの? うちの
「えっ、いや、いやというわけでは」
若い頃はさぞかし美青年だったと思われる周明高は、物腰柔らかに鋭く核心を突き、いつの間にか相手を自分の陣地に引きこんでしまうことで有名な人物で、議会でも恐れられているという。
「ほら、小さい頃、誠和と紅蘭ちゃんはよく言っていただろう。『おおきくなったら結婚しようね』って。だから僕と紅蘭ちゃんのお父さんは君たちが二十歳を越えたら結婚させてやるか、ってずっと話していたんだよ。紅蘭ちゃん、ついこの前二十歳の誕生日だっただろう?」
「ええ、はい、まあ……」
「ね? だからさ」
そんな大昔の
「紅蘭ちゃん、誠和が嫌じゃないんでしょ?」
「え?! え、ええ、まあ……」
相手の父親に面と向かって「あんたの息子と結婚はしない」とはさすがの紅蘭も言えない。
「よし! じゃあ本決まりだね!」
「お、おじさま落ち着いてください、誠和の気持ちも察してあげなくては」
誠和は幼い頃から紅蘭のことを知り尽くしている。強すぎる性格はもちろん、食べ物の好き嫌いから日常のクセまで、ほぼ家族同様に知っていると言っていい。
いくら誠和がボンヤリしているとはいえ、ぜったいにそんな女人と結婚なんかしたくないだろう。
「だいじょうぶだいじょうぶ。誠和に言ったら『わかりました』って言ってたから」
いやぜったいに何もわかってないだろうあの
「ところでさ、紅蘭ちゃん。相談なんだけど」
す、と周明高の顔から笑いが消えたので、紅蘭も思わず身構える。
さっそく議会での根回しの話か、と紅蘭が頭を巡らせていると、思いがけないことを周明高が言った。
「
「えっ」
知っているも何も、弟・耀藍の想い人である。
その料理の腕で耀藍の心をわしづかみにし、いつの間にか建安では有名な料理人になっていた。
「ええ、まあ、噂は耳にしておりますが」
「その香織という人物は『おそうざい食堂』という食堂を営んでいるそうだね」
「ええ、そのようで」
「その食堂に耀藍くんはよく通っていたんだろう?」
――さては調べてあるな。
さすがはぬかりない大物政治家、と思った紅蘭は仕方なく頷いた。
「耀藍は術師としての腕と味覚だけは確かですので。腕のいい料理人だと気に入って、食堂に通っておりましたが」
芭帝国の間諜かもしれないと疑って紅蘭が耀藍に見張らせていたことや、耀藍の想いのことは伏せておいた。
「ふむふむ。ということは、紅蘭ちゃんも香織と面識があるんだね?」
「ええ、まあ……失礼ながらおじさま、なんのお話でしょうか?」
怪訝に思って訊ねると、周明高はにっこりと笑った。
「次の芭帝国との会談、ほら、耀藍くんが特使になっている国境安全保障の会談ね。あれに、料理人を伴うことになったらしい。それでね、僕らの派閥は聖厨師・香織を推したいと思っているんだよね。だから紅蘭ちゃん、香織なる人物にこの件、内々で頼んでくれない?」
「なっ……」
さすがの紅蘭も絶句した。
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