第三章 異世界「おそうざい食堂」は料理で世界を救います

第百二十五話 聖厨師・香織の誰も知らない日常


 呉陽国の王都、建安。

 その片隅に、おそうざい食堂という小さな食堂があるという。


 そこはとある町医師の自宅を工夫して営まれる、素朴な食堂。

 出てくる料理はけっして豪勢ではない。

 しかし、素朴で温かい滋味にあふれているという。


 ここへくるとまず振舞われる、無料の汁物。これがまた見たことも聞いたこともないものばかり。

 すいとん、けんちん、しちゅー、みねすとろーね。

 名称も味も初めて経験するものだが、どれもこれも身体に染みわたる美味しさだという。


 客はまずこの汁物で心も身体も温まる。


 そして、近所の人々の持ちよりと料理人が自ら用意したという食材で作られた料理が運ばれてきて、それに舌鼓を打つ。


 何かを注文するのではなく今ある食材で作れる物を提供する姿勢は、家庭の台所と同じ。ゆえに、家庭の味や雰囲気を求める人が利用するし、そんな老若男女の利用者で毎日行列ができる。


 ときには、噂が噂を呼んだデマを信じて訪れ、「話が違う! こんな家メシみたいな物じゃなくて外食っぽいものを出せ!」と怒る客もいる。

 そんなとき、奥から料理人が出てきて、そっと謝るのだ。


「ごめんなさい。わたしに作れる物はこんな物しかなくて」


 その言葉と真摯な態度は客の怒りを必ずしずめ、最後には出された料理をたくさん食べて満足して帰っていくのだという。


 人々はささやき合う。さすがは聖厨師せいちゅうし香織こうしょくだと。


 しかし人々は知らない。

 そんな聖厨師・香織が実は異世界転生者で、この世界でも複雑な事情を抱えているということを。


 そして、大失恋をしたばかりの傷心な16歳の乙女だということを――。






「ふう、これで洗い物も完了、と」


 夕飯の後、「手伝うよ」という三人にそれぞれ薬草煎じとお風呂を勧め、香織こうしょくは一人で厨を片付けていた。

 お風呂から、小英と青嵐の騒がしい声が聞こえてくる。二人とも、出会った頃より大人びたとはいえ、まだまだ無邪気な子どもだ。


「あはは。きっと華老師かせんせいが騒がしいのう、とか言ってますよね、耀藍ようらんさ――」


 振り返って誰もいないことに気付き、言葉を呑みこむ。

 香織は溜息をついて、自分の頭を叩いた。


「いたっ」

 我ながら痛い。そして情けない。

 もう何度目だろう。

 こうやって振り返って、耀藍のいない空間を見て胸がずきりと痛むのは。


 夕飯の後、いつも耀藍は片付けを手伝うともなく(本人は手伝っているつもりのようだったが)、洗い物をしている香織の後ろに立っていた。

 それが当たり前だった。

 本当は、当たり前のことなんかじゃなかったのに。


「はあ……バカだ、あたし」


 あとになって、失ったものの大きさに気付いて、いろいろなことを悔やむ。

 それは一般論。だから悔いのないようにね、というのは、机上の空論。


 43歳主婦としては、そんなことはわかっている。でも。


 もっと早く、自分の気持ちに気付けばよかった。

 異世界に転生して、おそうざい食堂をやろうと思って、料理のことばかり毎日考えてきた。そのことに悔いはない。料理を通じて、前世では味わえなかった幸福感や達成感を手にすることもできた。

 でも、自分が耀藍を想う気持ちには、もう少し早く気付けばよかったと後悔が残る。

 気付いて、想いを伝えて、もっと一緒に時を過ごしたかった。


「もう、もうあたしったらメソメソしないって決めたのにっ。それに……なんであれ耀藍様が王城へ行くことは変えられなかったんだから!」


 想いを吹っ切るように前掛けで手を拭いて、洗い場から立ち上がる。

 その拍子に、しゃらり、と首元で何かが揺れた。


「耀藍様からもらった首飾り……」


 碧玉が雫の形に加工された首飾り。サファイアのような深い碧い輝きは、触れれば手に取れる澄んだ水のようだ。


「もう……追い打ちをかけるように……なんなのよぅ」


 たまらなくなって香織は前掛けで顔を押さえた。

 前掛けに温かい雫がどんどん染みていく。


 どれくらいそうしていただろう。


「……泣いてたって、しょうがないわ」


 香織は顔を上げた。


「料理しよう。料理しなくちゃ!」

 香織は片付いた厨で、再び何かをごそごそと始めたのだった。







小英しょうえい青嵐せいらん華老師かせんせい、これ、食べてみてください」


 香織が置いた器を覗きこんで、三人は首を傾げた。


「食べる、とな」

「これは乾酪火鍋かんらくひなべの残りか?」

「いや、乾酪じゃないだろ。なんか……酢の臭いもするし、冷たい。香織、これはどうやって食うんだ?」


 器の中には黄色がかった乳白色のものがたっぷり入っていた。液体にしては固い。匙ですくって傾けるとぽてり、と落ちる。


「小英鋭いわ! そう、これには酢が入っているの」


 香織はさらに、大きなザルをどん、と卓子に置いた。

 茹でたニンジンや、青菜や、花蕾房(ブロッコリー)、キャベツが山になっている。


「野菜につけて食べてみて?」

「え? この物体を? 調味料の一種ってことか?」


 言いながら小英は人参を手に取り、それで器の中の物体をすくって口に入れた。


 瞬間、小英の顔が輝く。


「うまっ。美味いよ香織!」


 華老師と青嵐は顔を見合わせ、小英と同じようにそれぞに野菜を手にとり、おそるおそる乳白色の物体をすくって口にいれた。



「なんと……初めて食べる味じゃ。酸味があるのに、まろやかさや甘味もあり、野菜の味や食感を引き立てる」

「これは調味料じゃない。立派な料理だ。野菜を別の料理に変えてしまう料理。香織、これは一体なんなんだ」

 聞きながら、青嵐の食べる手が止まらない。


「これはね、マヨネーズっていうの」

「「「まよねーず???」」」



――昨夜。


 みんなが寝静まったあと、香織は片付いた厨で一人、一心不乱に泡だて器を動かしていた。



 野菜を洗うときに使う、深めの大きな金属の器。

 そこに卵、酢、塩を入れて混ぜる。

 そこへ少しずつ、一滴一滴たらすように、少しずつ油を加えて混ぜていく。

 池に落ちた雨粒が、池の水にすっかり同化するように、油だったものは卵と酢と塩の溶液に混ざりこみ、あとかたもなくなっていく。

 そうなってから、また一滴油を落とす。

 その作業の繰り返しだ。



「それじゃあ、材料は卵と酢と塩と油だけ、ってことか?」

「ええ、そうよ」

「なるほどのう……材料は簡素じゃが、根気のいる作業じゃな」

「しかし、初めて食べる味だ。郷土料理か? 俺も芭帝国人だがこんな料理は初めて食べる。一体、どの地方のものだ?」

「あ……いや、あの、郷土料理っていうか……ちょっと思いついてみただけなの」


 三人は目を丸くする。


「なんと。思い付きとは」

「香織、すごいな! 店が持てるぞ……ってもう持ってるか」

「さすが聖厨師せいちゅうしだな、香織は。とんでもないことを思いつく」


 三人はしきりに感心し、次々にマヨネーズを野菜ですくって口に入れていく。

 数分後、ザルに盛った野菜はすべてなくなった。


 青嵐がうなった。

「これは、野菜を食べない子どもにもいいんじゃないか? じつは、俺は人参が苦手なんだが、まよねーずを付けたら普通に食べられた」

「その通りよ青嵐。野菜をたくさん食べるにはうってつけよ。それにしても青嵐が人参苦手だったなんて……知らなかったわ」

「香織、こう見えて青嵐はけっこう苦手な野菜があるんだぜ。まよねーずをたくさん作って、青嵐の野菜苦手を克服させようぜ。混ぜれば作れるなら、材料の調合さえしてくれれば俺も作るし」

「い、いいのよ小英、ありがとう。小英は薬を作るので忙しいでしょ。マヨネーズはわたしがたくさん作るから大丈夫」

「そうか?」

「ええ、もちろん」


 そのとき、外で挨拶の声がした。明梓や、近所の人々がおそうざい食堂で使う食材を運びこんでいる。


「もうこんな時間だったのね!」

「おお、小英、我らも行く支度をせねば」

「はい、老師」


 小英と華老師が立ち上がった。


「香織、食材はいつも通り、厨の入り口に運べばいいか?」

「え? うん、そうだね。ありがとう、青嵐」


 青嵐は集まってきた人々と会話している。

 香織はそっと胸をなでおろした。



 香織にとって、マヨネーズは明日の一歩のための料理。

 それを三人に気付かれなかったことに、ホッとしたのだ。

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