第百二十一話 蔡家の朝食風景


 十人掛け、紫檀したんでできた大卓子おおたくし

 その上には、たくさんの皿が並んでいる。

 湯気を上げる大皿もあり、美しく食材が並べられた皿があり、朝食とは思えない豪華さだ。


 術師を輩出する蔡家では、医食同源を常に心がけた食事が供される。

 術師は、その身体に流れる気が術の基本とされるため、身体に取り入れるもの、つまり食と水には細心の注意をはらう。

 薬草の入った粥に始まり、摘みたての生野菜の和え物、根菜と鶏肉と棗の羹、さらには卵や乾酪や果物まで、健康に良いとされるありとあらゆる食材がところせましと並んでいる。


 その上座にひとり座り、蔡紅蘭は朝食を採っていた。

 薄い白陶磁器の椀から、匙で優雅に粥をすくっていた細い指が止まる。


「よ、耀藍かえ……?」


 食堂にふらりと入ってきた幽鬼のごとき人影は、姉から少し離れた席へ座った。

「おばようございばす、姉上」

「声もひどいのう。誰ぞ、耀藍に蜂蜜を溶かした湯を持て!」


 さっそく厨から湯気の上がる茶器が運ばれた。


「耀藍、まずはその湯を飲むのじゃ。今日は入城の義がある。そのような声では儀式に障りがあろう」

 黙って湯をすする美しき弟を見て、紅蘭は眉をひそめる。


「昨日、なんぞあったかえ」

「べ、べつに……」

「あの小娘かえ」


 耀藍がぶはっ、と湯をふいた。紅蘭は眉をしかめ、手拭きを渡してやる。


「きたないのう。まったくそなたはすぐに物を噴く……前もこんなことがあったぞ」

「す、すみません」

「で? あの小娘と何があったのじゃ」

「…………」


 紅蘭の眉が厳しく吊り上がる。


「まさか……術師として清らかなまま王城へ召されなくてはならないその身で、あの小娘と男女の仲になったのではあるまいな?!」

「そ! そそそそんな! そんな不埒ふらちなことは断じてありませんっ!!」

「ではなんじゃ」

「そ、それは……姉上が知らずともよいことです」


 耀藍はすねたように蜂蜜湯を飲み干した。


「ふん。かわいくないのう。そうじゃな、男女の仲になったのではないなら、おおかた想いを伝えたというところじゃな」


 今度は粥をふきかけたがなんとか飲みこみ、耀藍はあわてて水を飲んだ。


「図星か」

「…………」

 端麗な花のかんばせが、憂い気に息を吐いた。

「たわけめ。女人に対し、なんと残酷なことを」


 意外にも姉が香織をかばうようなことを言ったので、耀藍は驚いた。


「残酷、ですか?」

「そなた、あの小娘を王城へ伴わないのであろう? ならばそなたの想いを伝えたとて、生殺しではないか」

「な、なまごろし……」

「あの小娘もそなたを憎からず思っておるなら尚更じゃ。想い人から想いを伝えられて、はいそうですか、で終わるほどそなたらはこどもではあるまい」

「う……」



 昨夜のことが思い出されて、耀藍は赤くなったり青くなったりした。


 香織こうしょくの想いを知ったあのとき。互いに想い合っていることがわかった瞬間。

 たしかに、あれが室内であったなら……くちづけだけで終わっていたかどうか、耀藍は自信がない。



「やはり厨女として、伴えばよかったのではないか?」

「…………」



 香織がそばにいる。香織のご飯が食べられる。香織に触れることができる。

(オレにとっては、この上ない幸せだ)


 しかし、香織はどうなる?


 王女を娶る耀藍の影の存在となり、王女と耀藍のために料理をし、閨にだけ呼ばれる。側室にするとは、そういうことだ。

 そんなことは、やはり断じてできない。


「いいえ、姉上。これでよかったのです。オレは、一人で王城へ行く」


 香織を連れてはいけない。

 たとえもう会えなくても、香織には自由に、幸せになってほしい。


(オレが王城へ入り術師として仕事をするのも、すべて香織のためなのだから)


 早急に国境の安全を確保し、物流を正常に戻し、商人が安心して行き交える世の中にする。小麦や海藻や塩や乾酪、様々な食材が呉陽国に、香織の元に届くようにする。


(そのために、オレは王城へ入るのだ。しっかりせねば)


「みっともないところをお見せして、すみません。姉上」

「む、むう、べつに謝らずともよいが」

「朝食をいただきます」


 きちんと仕事をするには、きちんと食べなくては。


「おお、そうか。では雹杏を呼ぼうかの」

「いえ、自分で取り分けるので」


 言って、耀藍は湯気あがる大皿から次々に料理をよそっていく。



(――耀藍は、変わった)

 朝食を食べ始めた弟を見て、紅蘭は目を細める。


 生きることに前向きになった。王城へ入り、己の異能ちからを世のために王のために使おうという気概が出てきた。

 生まれながらに決まった宿命を呪い、投げやりになって腐っていた頃の面影は、もはやどこにもない。



香織こうしょく、といったか。あの小娘のおかげといえばそうなのかもしれぬ)


 一度、屋敷へ呼んだときのことを思い出す。

 琥珀色に艶めく髪に珍しい紫色の瞳をした、美しい少女だった。

 そして、純粋無垢に見えた。


(あの純粋無垢さが、あのときは芭帝国の間諜だということを隠すための偽りと思うたが……)

 今の時点で、香織は間諜ではないようだとわかっている。

 だとすれば、あの純粋無垢は、生来のもの。


(だから耀藍は、あの娘に執着したのだな)


 生まれながらに術師の宿命を負い、小さい頃から近寄ってくる者の裏心に敏感だった耀藍にとって、純粋無垢な存在というのがどれほど眩しく映ったことだろう。


(あの香織という娘と想い想われたことが耀藍を変え、立派な術師として目覚めさせたのなら――なんたる皮肉)


 その端麗な容姿に似合わず、食卓の上の料理を旺盛な食欲で片付けていく弟に、紅蘭は憐れみの眼差しを向ける。



 耀藍にとって香織は、ただ一人、初めて心から愛した女人であったであろうに。



(そういえば……)


 耀藍が食べる姿を見て、ふと紅蘭は思う。


(雹杏が持ち帰った市井の話では、あの香織という娘、おそうざい食堂とかいう食堂をやっているそうな)


 それがかなりな評判を呼んでいるという。


 豪勢な料理や珍味が出るわけではない。出てくる料理はなんということのない家庭料理や、見たことも聞いたこともないが素朴な料理なのだが、それが「また行きたい」と思わせる味なのだという。

 そして、ほとんど代金らしい代金を取らないので、建安の貧困層や芭帝国から流れてきた難民なども炊き出しのように利用しているという。

 その寛容ぶりがまた評判を呼び、今や建安でその名を知らない者はないほどだとか。


(たしかに耀藍も、我が家の料理よりもあの小娘の料理にこだわっていたな……我が家の料理人は建安、いや呉陽国屈指の腕前だというのに)




 もう一度、あの香織という娘に会ってみたい――紅蘭は粥を口に運びながら思った。




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