第百二十二話 耀藍入城、そして願うのはただひとつ



 蔡家敷地の南東には、術師しか立ち入れない一画がある。

 その一画には井戸があり、そこには遠く北の聖なる山から水が引かれ、術師が身を浄めるときのみに使われる。


 口に含んで甘く、手に取れば塵ひとつない清水。

 その水を桶で何度も何度も汲み、何度も何度も生まれたままの姿にかける。

 細身ながら術師としての鍛錬で鋼のように引き締まった身体。月の光を帯びたような銀色の髪。そこへ、幾度となく聖なる清水が滴り落ちる。

 清水が落ちる音とともに、低い旋律が途切れることなく続く。身を浄めるために術師が詠唱する呪詞だ。


 それを、太陽の位置が変わったことが明らかな時間、続けた後。


 耀藍ようらんは傍の四阿に上がり、シミ一つない純白の袍をまとい、額に、耳に、首に、蔡術師にのみ伝わる装身具を身に着けていく。


 すべて身支度が整うと、耀藍はその場から生まれ育った屋敷に向かって、一礼した。

「さらば、我が家」


 母屋に戻り、亡き母の廟堂に香を焚き、病の父を見舞った。

「まさか、自分の息子が術師になるとはなあ」


 寝台の上の父は、一時期よりはいくらか顔色がよかった。華老師かせんせいが煎じた薬包を飲むようになってからだ。


「華老師には薬包のこと、お願いしてあります。どうか、一日も早くお元気になられてください」

「そなたも、達者でな。そなたの花婿姿が見れないのは寂しいが」


 涙もろい父はさめざめと泣いている。


「なにをおっしゃいますか! オレの花婿姿よりも、姉上の花嫁姿の方がもっと華やかですよ!」

「うう、それこそ一生見れない気がする……」

「何をおっしゃいますか! オレがいなくなる今、というかオレがいたとしてもこの蔡家を継げるのは姉上しかいないでしょう! 弟妹たちもそう思っているはず。良きお相手を見つけてさしあげなければ」

「痛いところを突くなあ、耀藍よ」


 父は苦笑する。病床にある父のもっとも大きな悩みは、己の病のことよりも長女・紅蘭こうらんの結婚のことだろう。


「だまっていれば母さん譲りの美女なのだが……」

「ま、まあまあ父上。姉上がしておられるおかげで、オレも安心して王の元へ行けるのです。あのようにお美しいのですから、そのうち縁談の一つや二つ、すぐに降ってわいてきますよ。そのためにも早く父上がお元気にならなくては」

「うう、そうだな……もういっそ、隣の堅芳けんほう君がもらってくれないだろうか……」


 溜息をつく父をなだめつつ、耀藍は思う。

(なるほど、周家の誠和兄さんがいたな)

 隣の周家はやはり大貴族五家のひとつで、子どもたちも年齢が近くて家同士の付き合いもあったので、幼い頃はよく遊んだ仲だ。

 特に紅蘭と誠和は同い年ということもあり、ほんの小さな頃はお互いに「けっこんしようね」などと可愛らしい会話で大人たちを和ませていた。


「たしか、誠和兄さんは登用試験を受けて、官吏になられているはずですよね」

「ああ、三年前からだったかな。時折、王城で見かけることがあったが、立派になったものだよ」

「オレも、王城でお会いすることがあったら声をかけてみます」

「うむ、よろしく頼む」


 自宅最後の朝の会話が、姉の結婚の心配話で終わったことが、蔡家、この父、そして耀藍らしいといえば、らしかった。






 執務室に入ると、すでに紅蘭は見送りの装いで待っていた。

「姉上。支度が整いました」

 一礼した耀藍を見て、紅蘭は眩しそうに目を細めた。

「母上にも見せたかったのう、耀藍。――ふむ、迎えの輿も到着したようじゃ。ゆくか」


 遠くで、かすかに雅な太鼓が鳴っている。

 王城より遣わされた、術師の迎えだ。


 二人で回廊に出て、進んでいく。

 後から雹杏ひょうあんがひっそりとついてくるだけで、他には誰もいない。

 住み慣れた屋敷や好きだった庭院にわを眺めて歩を進めていた耀藍が、ふいに立ち止まった。


「姉上。ひとつだけ、お願いしたいことがあります」


 紅錦の袍に銀紗の上衣をまとった紅蘭が、あでやかに振り返った。


「ほう、そなたが我に願いとは、初めてのことかもしれぬな。なんでも聞くぞ。遠慮なく申せ」

「ありがとうございます。では……香織こうしょくのことなのですが」

「ほう?」

「香織は、おそらく、そう遠くないうちに記憶が戻るでしょう。そのときに何らかの力になってやってほしいのです」

「ふうむ……」

「お願いします」


 長身を折って頭を垂れた弟に、紅蘭はわずかに眉を上げる。


(香織のこととは思ったが、やっぱり連れていく、ではなく、力になってやってくれ、とは……)

 少し前、耀藍は香織を愛していると言った。

(本気なのだな、耀藍)


 紅蘭は、そっと耀藍の身体を起こした。


「まったく、やめよやめよ、きもちわるい。そなたが我に頭を下げるなど、天から槍が降ろうぞ」

「姉上……」

「よくわかった。心配せずともよい。あの香織とかいう娘が困っていたら、必ず力になろう」

 紅蘭が力強く頷くと、耀藍は安心したようにふわっと笑んだ。

「ありがとうございます」




 蔡家より、術師入城――。


 その日、後宮の妃嬪もかくやという絢爛豪華な輿行列を見るために、建安の北、王城への沿道には見物人が詰めかけたのだった。



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