第百二十話 フェイスマスクはないけれど



 次の日。

 香織は早く起きて、顔を冷やしていた。

 思ったほど腫れてはないが、前日に泣いたな、とわかる程度にはひどい顔をしている。

 明けの明星が輝き、空が白んでくるのを見上げ、庭院にわの水場で何度も手拭をしぼり、顔にあてる。


(今日は、耀藍様が入城する晴れの日。そのために胡蝶こちょう様と三姫は王城へ行く。だからその留守を、わたしはしっかりと預からなくては)


 吉兆楼のみんなのために。

 耀藍のために。

 胡蝶の代理にふさわしく、華やかに毅然と。顔を腫らしている場合ではない。


「はは、こんなとき速攻お助けフェイスマスクとかあるといいんだけどなあ」

 ちょっと冗談を言って自分を元気づけてみる。

 結婚前はずいぶんお世話になったフェイスマスク。ドラッグストアやMoftに売っているリーズナブルな物から、〇K-Ⅱなどの高価な物まで、泣きはらした顔も残業疲労の顔もすべて解決してくれた。


「思えば、フェイスマスクにお世話にならなくていいほど、毎日幸せに暮らせているんだよね、今のわたしは」



 そう考えると、今の境遇には心から感謝しなくてはと思う。

 耀藍のことはつらい。きっと、ずっと、忘れられない。

「でも、わたしにはおそうざい食堂がある」



 香織の料理を待ってくれている人々がたくさんいる。自分の能力を人のために活かせる毎日がある。

 いつまでもくよくよしてはいられない。



「それに、わたしには、御守りがあるもの」

 耀藍からもらった首飾りは、香織の胸元に今もある。



「よし、がんばるぞ」


 香織は手拭を顔に広げて、ぺしぺしと叩いた。まるでフェイスマスクのように。





「あっ、小英、青嵐、おはよう!」


 ぐつぐつと温かい音のする鍋をいくつも見ながら、香織は二人にぴょこんと頭を下げた。

「きのうはごめんね。ありがとうね」


 小英と青嵐は心配そうに顔を見合わせる。


「ぜんぜんいいんだ、俺たちは。ていうか、大丈夫なのか香織」

「そうだ。朝食も俺たちでやるから、休んでいたほうが」


 心配そうな二人の肩をぽんぽんと叩いて、香織は笑ってみせた。

「ありがとう、でももう大丈夫。おそうざい食堂の仕込みもあるし、夕飯の下準備もあるし。そうそう、二人には、今夜も夕飯の支度をお願いしないといけないし」

「え? 香織、夜なにかあるのか」

「ああ、そうだ。吉兆楼か」


 青嵐が言う。おそうざい食堂の支度をしながら、青嵐には話してあったのだ。


「そうなの。今夜は胡蝶様の代理で吉兆楼のお留守番なの。だから二人とも、悪いんだけど、お夕飯、今夜もお願いね」

「お、おう」

「任せてくれ」

「吉兆楼で余ったお客様用のお菓子を持って帰っていいって言われているから、楽しみにしといて」

「「やった!」」

「じゃあ、朝ごはんのお膳立てだけお願いしてもいい? もうすぐできるから」

「わかった! あー、腹減った」


 小英と青嵐はすぐに居間で朝食の準備を整え始める。

 2人の連携は見事なものだ。

 小英が卓上に箸や茶器を並べ、ときには庭院から小花を摘んできて空き瓶に飾ったりと、細かいところに気を配る。

 青嵐が椅子や卓子を拭きあげ、床が汚れていないか確認し、居間の空気を入れ替えたりと、全体を点検する。

 まさに阿吽の呼吸。最初は仲が悪かったのが信じられないくらいだ。


(子どもの成長って、速いわよね)


 香織が再び、厨で動き回っていると、


香織こうしょく、おはよう」

 いつものように、華老師がにこやかに声をかけてきた。


「あっ、おはようございます華老師かせんせい。白湯、飲みますか?」

「ふむ、お願いしよう。おお、今朝もいい匂いがしているのう」


 華老師も何事もなかったように接してくれる。その気持ちがありがたかった。


「いただきまーす」


 四人で手を合わせる、いつもと変わらない朝。



 土鍋で炊いた白飯、長芋と豆腐とワカメの味噌汁、甘い卵焼き、青菜のおひたし、佃煮。


「やっぱり香織が炊いた白飯は、米が一粒一粒かめて美味いんだよな!」

「今日の味噌汁は長芋がシャキッとして、トロミで豆腐がとろりと溶けるまみたいだな!俺の母も料理はうまかったが、香織はなんていうか、料理人のようだ」

「料理人には違いないだろ。おそうざい食堂は、今や建安じゃかなり有名だぞ。ですよね、華老師」

「確かにそうじゃのう」

「往診のたびに、華老師の家でおそうざい食堂を営んでいるのは本当か、って聞かれるんだぜ。すごいよな、香織」

「えっ?! う、うん、なんだか実感はないけど……」

「これだもんな」

 小英が笑う。

「香織は無自覚っていうか、ぼんやりっていうか……でもきっと、香織のそういうところが料理を美味しくするのかもな」

「うん。そうだな。香織は、無垢なんだ」

 青嵐が真面目な顔で言う。

「私利私欲がない。それが香織の料理を美味しくするんだな」

 2人があまり褒めるので、香織はこそばゆいやらしみじみするやら。


(きっと……小英も青嵐もわたしを励ましてくれているんだわ)


 だから香織も、笑顔で答えた。

「おそうざい食堂に来てくれた人が、美味しい、って笑顔になってくれたら、わたしもうれしいんだ」

「香織の作ったものはなんでも美味しいぜ!俺はおかわりだ!」

「あっ、待て俺も!」


 競うようにおかわりに立つ小英と青嵐の姿に華老師と香織は笑う。



 いつもと変わらない朝食風景。

 けれど、ひとつだけ変わること。

 ここに耀藍がもどることは、もうないということ。



(わたしも、早くいつもと同じに戻れるように、そして……耀藍様のいない日常に慣れるように……毎日コツコツやっていこう)


 香織はいつも通りみんなと箸を動かし、話し、笑う。


 いつもと同じ朝ご飯は、まったく味がしないけれど。


 それでも、いつもと同じ素朴なご飯が、静かに心を癒してくれることを、香織は知っている。

 だから、いつも通り食べる。たとえ味がしなくても。

 


 お米の甘さを、また味わうことができる日がくることを信じて――。



 香織はいつもより丁寧に、白飯をかみしめた。







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