第百十九話 華老師の話


 庭院にわで急いで顔を洗い、数回深呼吸をする。


「よし」

 香織は、大きな声で土間へ入っていった。

「ただいまー」

(少し声がかすれているけど、うん、だいじょうぶ)


 そう思って夕飯の支度をしようと前掛けをしていると、

香織こうしょく

 華老師の声に、振り返る。

 すると、華老師の後ろから顔をのぞかせた小英と青嵐がぎょっとした。


「こ、香織、どうしたんだよその顔! 薬、薬が必要か?!」

 あわてて薬草部屋へ駆けていった小英の隣から、さっと青嵐が土間の水場へ下り、水にひたした手拭を香織に渡す。


「赤く腫れているぞ。冷やしたほうがいい」

「香織、なにがあったんじゃ?」


小英しょうえい青嵐せいらん華老師かせんせい……)

 みんな、香織のことを心配してくれている。


「ふ、ぅ……」

 視界がぼやける。青嵐がくれた手拭が、再び熱をもった目に心地よかった。


「香織、よかったらわしの部屋で話をせぬか」

 華老師の言葉に香織は小さくうなずいた。

「ふむ、では行こうか。小英、青嵐、悪いが夕餉の支度を頼むわい」

「まかせといてください、華老師」

「承知しました、華老師」

 小英と青嵐は二人で土間に下りていった。


 香織は華老師の後から庭院にわを抜け、華老師の部屋へ入った。


 華老師の部屋は他の部屋よりも少し広い。よけいな物がいっさい無かった。書き物机に、寝牀に、抽斗付きの本棚。

 古いけれど上等な布帛の垂れる窓際に、大きな椅子が二つ、小さな卓子と向かい合っている。華老師はその一つを香織に勧め、向かいに座った。


「そなたの帰りが遅いと思い、門の外へ出てみたら、そなたと耀藍ようらんの姿が見えたのでのう……耀藍から、聞いたのであろう?」


 華老師が静かに言った。困ったような、哀しそうな顔をしている。香織は手拭で目元を押さえた。


「華老師は……知っていらしたんですか?」

「わしは、無駄に長生きをしておるでな」


 寂しそうに笑い、華老師は話し出した。


「わしは、呉陽国より西域の国で生まれた。だが、戦乱を逃れ、呉陽国へやってきた。その頃にはすでに、医師であった父親の手伝いをしておった。この国で正式に医師となり、そのときの医師試験の成績を認められ、王城に召されて医官となった。

 当時も蔡術師が存在した治世でな。耀藍の曽祖父にあたる御方だったが、身体の弱い御仁でな。心配した王が、わしに蔡術師に薬湯を煎じるよう命じられた。蔡術師、および蔡家との縁はそこからじゃな。

 蔡家は古より、異能をもつ者がときおり生まれる。

 その昔、蔡家当主は家を存続させるため、異能を以て王家に仕えることを誓約した。異能で王家を滅ぼし、君主となる意図は一切無いことを示したんじゃ。だから蔡家に生まれた異能の者は、二十歳になると王家へ召されるしきたりとなっている。耀藍はまだ十八じゃが、王からの御召しで入城が早まったらしい。

 そして、召された者は『蔡術師』という称号を持ち、生涯王に仕える。後宮の妃嬪と同じく、一度王城へ入れば二度と外へ出ることはない」


 香織はうなずいた。目元を押さえたままの香織を、華老師は気遣わしげに見つめた。


「そして蔡術師は、王城へ入れば、王家の末の王女を娶ることになっておる。これもしきたりじゃ」



「そう、だったんですね……」

 生涯を王城で過ごす。そう聞いたとき、予想はしていた。

 おそらく、結婚相手も決められているのだろう、と。

(だからきっと、耀藍様はあんなにあやまっていたんだ……)

 すまない、と耀藍は繰り返した。

 それはきっと、誠実な耀藍の本心だったのだ。

 結婚相手は決まっているが、香織への想いは抑えきれない。だから「すまない」と。

「あ奴は、すべて黙って王城へ行くつもりだったらしい。だが、話したのじゃな。それがよかったのかどうか、わからぬが……」

 真っ赤に泣きはらした香織を見て、華老師は大きく息をついた。

「二人のことと思い、余計なことは言わぬほうがよいと黙っておったが、もっと早く、少しずつでもそなたに話しておくべきじゃったな。かわいそうなことをした」

「い、いいえっ、華老師は何も悪くありません。す、すみません、取り乱してしまって」

(そうだわ……わたしには、心配してくれる人々がいる。守るべき生活がある……)

「華老師、お話してくださって、ありがとうございます」

「いや、何の役にも立てぬが……わしらに何かできることがあれば、なんでも言うんじゃぞ」

「はい」

 華老師の言葉の温かさに、また目頭が熱くなる。


 いつまでもくよくよしているわけにはいかない。

 けれど、今は笑えそうになかった。

 そんなときはどうすればよいか、43歳主婦の心は知っている。


「さっそくお言葉に甘えて……わたし、今日はもう、寝てもいいでしょうか」


 どうにもならないとき。心が立ち直れないとき。先のことが考えられないとき。

 そんな夜は、寝てしまうにかぎる。

 そうすれば、朝がくる。朝がくれば、なんとか日常が回っていくのだ。


「おお、もちろんじゃ。あとのことは気にせず、もう休みなさい」

「はい。小英と青嵐にも、ごめんなさい、と伝えてください」

「だいじょうぶじゃ。あの子らも香織のことを心配しておるでな。ああ見えて頼りになる子らじゃ。気兼ねなく休みなさい」

「はい……ありがとうございます」


 香織は一礼すると、華老師の部屋を出た。


 自室へ入り、そのまま寝牀へ横になる。

 胸元でしゃら、と何かが揺れた。

 手を当てると、じんわり温かい。

 オレの代わりだと思ってくれ、と耀藍が言った首飾りの宝玉だ。


「耀藍様……」


 とめどなく落ちる涙に、あっという間に枕が冷たくなる。


(いつかきっと、笑って話せるときがくる)

 どこかで聞いた歌のようなことを思う。

 けれど、そうなるまでには相当な時間が必要だということも、43歳主婦の心は知っていた。

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